第四章 きらきら……?
1
二〇一四年 七月二十日 日曜日
日本女子サッカーリーグ 第十一節
石巻ベイスパロウ 対 パッション熊本FC
会場 石巻臨海陸上競技場(宮城県石巻市)
この肉体に入ってから初めての試合を迎えるにあたり、
昨日夕方のメンバー発表からずっと、そわそわそわそわ。今の今までずっと同じテンションが持続されている。いや、開始も直前となって、さらにテンションアップしたかも知れない。
「ついに初の公式戦がキターーーー!」
満面の笑みを浮かべ、両手を突き上げ叫んだ。背景には大波がざぶーん、ジャンボジェットがド迫力で唸りを上げて飛んでいく。
「初の?」
「あ、いや、こっちの話」
優衣は、へへへと笑いながら頭をかいた。
その頭であるが、もともと優衣の髪質は細くふんわりしているのだが、暑さの中ではしゃぎまくっているため、大量の汗でじっとりべたべた、いまにも頭に張り付きそうであった。
「この暑いのに、意味もなくバカみたいな大声出して無駄な体力消耗してんじゃないよ」
「くそう、いちいちうるせえな、いつもいつもあいつは。試合中に後ろからパンツ脱がしたろか」
耳に入らないように、ぼそぼそ小声で文句をいう優衣。
あんな性格の悪いどうしようもない嫌味ばかりの女よりも、試合だ試合。
この身体に入り込んで一ヶ月弱、とうとう公式戦でプレー出来る日がきたのだ。
しかもしかもスタメンだ。ここで頑張らなくていつ頑張るのか。
女の子の試合に野郎が出ていいのかという後ろめたさはあるが、でも身体は本当に女なんだし、そんな気にすることもないだろう。それより試合だ。サッカーだ。
しっかし、さっき嫌味クソ女のいっていた通り、今日は本当に暑いな。
優衣は、おでこの汗を袖で拭った。
太陽が地球のことを嫌いにでもなったのか、優しくないどころかまるで容赦のない熱波を絶え間なく送り込んでくる。
照り付けられた地面と、陸空両面から挟み撃ちで焼き焦がされているというのに、その上、昨日の土砂降りの雨が地中に染み込んでいて、蒸されて湿気までもが凄まじい。
ただそこに立っているだけでも不快極まりない天候であるが、しかし優衣は、さほど気にも留めていなかった。これから試合が出来るという嬉しさのほうが、遥かに勝っていたから。
両チームとも、つい先ほどアップを終えて引き上げており、ユニフォーム姿になって改めて入場するところだ。
「それでは、選手、入場です。みなさん、大きな拍手で、迎えて下さい」
スピーカーから、女性の声が場内に響いた。
実にたどたどしく、滑舌も悪い。この日だけのアルバイトであろうか。
先ほどなど、
それはともかくとして、選手がピッチへと姿を表すと、会場から一斉に拍手が起きた。
そしてスタンドの端にいる両サポーターの太鼓の音、チーム名コール。
ここは石巻臨海陸上競技場。石巻ベイスパロウがホームスタジアムとして使用する、二つの競技場のうちの一つである。
メインスタンドのみで、収容人数三千人の小さなスタジアムだ。ゴール裏やバックスタンドを芝生席として使用可能で、その際には一万人以上の収容が可能だが、建設以来サッカーの試合で一度も開放されたことはない。
宮城県石巻市、やはり東北の地はあまりにも遠いのか、パッション熊本の真っ赤なレプリカユニフォームを着ている者は、スタンドの端で大きな太鼓を叩いているその一人しかいない。自分で叩く太鼓のリズムに合わせて、ガラガラ声を張り上げている。
まあ、ホームであるベイスパロウにしても、二十人いるかいないかという程度であったが。
遠征ともなれば、やはり応援団が一人か二人ということも珍しくないし、これが、パッション熊本や石巻ベイスパロウに限らずなでしこリーグの現状なのである。
メインスタンドの両端には、このようにそれぞれのサポーターがおり、その間には、サッカー観戦を楽しみに来ているだけの一般の観客たち。勿論この私服観客の中にもファンや、選手の肉親など、はっきりした応援のベクトルを持つ者もいるのであろうが、大半は、近場でやっている無料の試合だから観に来ているというだけの者たちである。
客席すべて合わせて、三、四百人といったところであろうか。対戦カードや天候などで左右されることはあるが、今日はだいたいこの会場での平均入場者数と同じくらいである。
ピッチの上、灼熱の太陽と質の悪い芝(しかも湿気がぬるぬる湧き上がってくる)との間に挟まれた二十二人の戦士たちは、それぞれの陣地にて円陣を組んだ。
「よおしてめえら、絶対勝つぞ! 九十分走り切るぞ。指切りげんまんだ! ファイトッ、ファイトッ、ズンダッ!」
つい
無表情で、じーーっと自分の顔を見つめている西田久子の視線に気付いて、慌てて口を閉ざした。
くそ、黙っていても鬱陶しいな、この女は。
「なんか優衣に持ってかれちゃったけど、この試合、絶対に勝つよ。うちが調子を上げるためにも落とせない相手だ。二部上がりだけど一番勢いのあるチーム。でも油断しなければ勝てる。勢いに飲まれず、自分らのプレーで戦っていこう」
本物のキャプテンである
「ベイスパロウ」
「ファイトオー!」
選手たちの元気な叫び声が場内に轟いた。
2
円陣が解かれると、それぞれ走り出してピッチ上に散らばった。
パッション熊本の選手たちは、もうとっくにそれぞれのポジションについて、柔軟をしたり、靴の紐を結び直したり、思い思いに戦意を高めている。
なお熊本のファーストユニフォームは真紅であるが、今日は上下とも白のセカンドユニフォームだ。ホームである石巻ベイスパロウがオレンジ色のためである。
オレンジ色のユニフォームに身を包んだベイスパロウのキャプテン
先ほどみんなに注意を促した通り、熊本はいま一番勢いのあるチームだ。
もともとは、女子サッカーリーグに加入してからずっと二部所属で、さらにその中でも常に最下位を独走するチームであった。二部からの降格という制度がなかったこともあり、まともな強化に動かなかったのだ。
数年前、降格制度が出来た年に、早速にして降格が決定した。
二部最下位と地域リーグ上位チームとで、チャレンジリーグ参入戦、つまり熊本にとっては文字通りの入れ替え戦、を行なった結果、東京都のチームに敗れて降格が決まったのだ。
それをきっかけとして、クラブは大きく変わることになった。
まずフロント陣の交代、そしてスポンサー募集に力を入れ、Jリーグクラブと提携を結び、大手スポーツクラブともメインスポンサー締結、初めて胸スポンサーがついた。
そうした努力により安定した練習環境の提供や職の斡旋が出来るようになり、それを生かした大補強、などなど抜本的改革に本腰を入れた結果、一年で二部復帰、そこからさらに二年をかけて念願であった一部昇格を果たしたのである。
社会人リーグ時代に補強したっきりの選手層でチャレンジすることになった本年度、さすがに一部リーグで戦い抜くのは厳しいだろうといわれていた。しかしいざ蓋を開けてみれば、これまでの十試合のうち負けたのが開幕戦のみという、誰もが予想していなかった快進撃。
優勝候補筆頭である神戸SCにすらも、二点を先行されながらも後半のゴールラッシュで逆転勝ちしてしまったのだから。
当然ながらぎりぎり残留圏のベイスパロウよりも、順位は遥かに上だ。
「でも、半分は勢いだ」
間違いなく実力もあるのだろうけど。
こちらがその勢いを受けてしまわず、巧妙に、うまく相手を焦らせるような試合運びが出来れば、色々なボロが出てくるはずだ。
絶対に、勝つ。
と、茜が内面に闘志を燃え上がらせていると、とんだ邪魔が。
「公式戦最高ォォ!!」
こいつは、もう。
茜は苦笑した。
「ゆーい、また久子にどやされるぞお。元気なのは頼もしいけど、飛ばしすぎて途中でばてたりしないでよね」
「大丈夫大丈夫。任せとけ」
間もなくキックオフである。ピッチ上に広く散らばった選手たちは、いまかいまかと開始の笛を待っている。
主審は、笛を手に取ると口にくわえた。
センターサークルの中で、FWの
主審、
空気のゆらゆら揺らめく猛暑と多湿のスタジアムで、ベイスパロウボールにより試合が始まった。
3
笛の音と同時に、パッション熊本の九番、FWの
石巻ベイスパロウの
前へゆっくり走りながら受けた妙子は、一度止まり、前線にいる味方が駆け上がっていくのを確認すると、強く前方の左サイドへと蹴った。
左サイド、
クリアボールは、中盤まで下がってきていたパッション熊本の長身FW
平良美が前を向こうとしたその瞬間、優衣がスライディングで、そのボールを奪っていた。
「優衣、いいよ!」
キャプテンの野本茜が叫ぶ。
素早く立ち上がった優衣は平良美に背を向けて、スペースを見つけてドリブルで駆け上がる。
ほとんど速度を落とすことなく、パッション熊本DFの
がっ、と優衣は前につんのめるようによろけていた。
足元のボールがなくなっていた。
振り返る優衣。熊本の外間恵理が、大きくボールを蹴るところであった。
山なりのボールは、またしても、前線で待つ平良美へと渡った。
ベイスパロウのボランチ
くそ、噂通り厄介な選手だな。
と、野本茜は心の中で舌打ちした。
平良美はただ大きいだけでなく、ボールキープの能力や判断力も非常に優れている。そういう情報であったが、いままさに彼女はその実力を遺憾なく発揮していた。
「フォロー!」
後方から叫ぶ茜であったが、遅かった。
熊本の平良美は、近くに寄ってきた牛尾望へとパスを出す素振りを見せつつ、身体を反転させ反対のサイドへと強く蹴った。
そこにはフリーで悠々右サイドを駆け上がっている、熊本MF
郷田ほたるは、ボールの飛んで来るのを視認すると、足の回転を急加速、軽く跳躍しながら膝の内側でボールを受けた。と、っと着地すると、ほとんど勢いを落とすことなく走り続けた。
彼女、郷田ほたるは地域リーグ時代の大補強の際に加入し、パッション熊本大躍進の原動力となっている選手である。
五年前に行われたU20北京大会の優勝メンバーの一人で、その後サッカーを辞めて大学進学、卒業し教員となったが、熊本フロントの熱意に現役復帰をしたのだ。
寺田なえに押し出されるように、仙田チカがようやく郷田ほたるへと向かったが、時すでに遅く、低く速いアーリークロスを上げられてしまっていた。
ベイスパロウゴール前には、
堂島秀美は僅かに腰を落とし、飛んでくるボールに全神経を集中させた。
勢いもあって怖いクロスではあったが、精度が悪かった。ボールは、ゴール前にひしめく選手たちの頭上を越えて、落ちてバウンド、コーナー付近でタッチラインを割った。
「チカ、上げさせんなよ! それと、マークははっきり! なえもだ! 集中!」
野本茜は、語気荒く手を叩いた。
失点しなかったから良いというものではない。
たまたま相手がミスをしてしまっただけで、こっちにとってただ運が良かっただけだ。
郷田ほたるは、ほぼ毎試合のように高速ピンポイントクロスでアシストを決めているのだから、こんな気の抜けたプレーを続けていたら、絶対に負ける。
ただ叱咤していればいいわけじゃないけど、少なくとも緩い雰囲気はぴしゃりと叱らないと。
石巻ベイスパロウのスローインである。
寺田なえが寄りながら胸で受けたその瞬間、彼女の背後からパッション熊本の選手ががつがつと乱暴に身体をぶつけて奪おうとする。あわやボールを失うところであったが、寺田なえはなんとかこらえて奪われず、チカに戻した。
チカは転がってくるボールへと踏み出しながら、大きく前方へと蹴った。
パッション熊本の十八番、ボランチの
久子は独創性を発揮するよりも、堅実常識的なプレーを素早い判断力かつ高い技術レベルで行う選手だ。その判断力と技術力を生かして、永瀬奈々から奪ったその瞬間には、相手の
そのスルーパスを予期し、FWの辻内秋菜が飛び出していた。
オフサイドはない。
自慢の快足を飛ばしてボールへと迫るベイスパロウFWに、客席が沸いた。
GKが飛び出した。
だが、先にボールに触れたのは秋菜であった。ボールをちょんと浮かせ、スライディングで飛び込んでくるGKをかわし、弾むボールへと詰め寄り、そしてシュート……と、蹴り足を振り下ろそうとする瞬間であった。後ろから追ってきた熊本のCB、
手で突き飛されたようにも見える際どいプレーであったが、しかし主審は笛を吹かなかった。
ちょうど
転がされた秋菜は、上体を起こすと、悔しがって両手で地面を叩いた。簡単に倒されてしまった自分への苛立ちなのか、プレーを流した審判への不満なのかは、本人しか知る由もないが。
「うおりゃああ!」
奪い返そうと、猛然と駆け寄る優衣であったが、勢いありすぎて簡単にかわされてしまった。なおも蛇のように、食らいつこうとする。
熊本の田口麻奈は、それに付き合う義理などなく、大きくクリアしてその場を逃れた。
「優衣、あまり無駄走りするな!」
茜が注意する。
無駄走りを重ねに重ね、なんとか一点をもぎ取って、その点差を争うのがサッカーという競技であるが、ただ無意味に走っていたら肝心な時に走れなくなってしまう。まして、優衣なのであればなおさらだ。
パッション熊本のボランチ永瀬奈々から、右
だがベイスパロウの左SB、仙田チカが読んでいた。すっと軌道上へと走り込み、足を伸ばしてパスカット。
それを合図にベイスパロウの選手たちが、前線へと上がり出した。
熊本はボールが郷田ほたるへ渡ることを信じて、攻撃的にスイッチを切り替えたところであったため、守備への対応が遅れた。
タッチライン沿いを駆け上がりながら、仙田チカは大きく蹴ってサイドチェンジ。右サイド前方で、優衣が走りながら右膝の内側でトラップした。
「優衣!」
オーバーラップに走り込む右
洋子は優衣からボールを受け、勢いよく駆け上がっていく。郷田ほたるのプレーに触発されたのかも知れない。
ポストプレーが得意なFW
もう一人かわしてパスコース作って、辻内秋菜を走らせるか、
などの選択が考えられる状況であったが、洋子は、どちらも実行することはなかった。
背後から、まるで体当たりのように強引に身体を入れられ、転ばされたのである。
その際に捻ってしまったのか、洋子は悲鳴を上げ、痛みに顔を歪め、右の足首を押さえて転げ回っている。
笛の音が響く。
主審は、パッション熊本の
洋子は完全にサイドを突破しており、なおかつ熊本のゴール前も薄くなっていた。おそらくは覚悟の上でのファールだったのだろう。
「優衣、いまのうちに水飲んでおきな」
4
優衣はそれを受け取ったが、しかし飲まずに、こっそりと地面に放り投げた。
猛暑は確かに身体にこたえていたが、喉の渇き自体はそれほど感じでいなかったのが理由の一つ。
それと、この身体が
それと最後が、
「ああ、痛かったあ」
ラフプレーを受けて転ばされた
このファールにより、ベイスパロウに
と、その時であった。
「優衣~、頑張れ~」
観客席から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
高校で同じクラスの、
ぞろぞろと、熊本ゴール前へと向かう両チームの選手たち。
優衣も一緒になって歩き出した。
「おう、頑張っべえ!」
などと、客席にいる篠原優衣の友人たちへ、大きく手を振り返しながら。
「ちょっと優衣! なにやってんの?」
寺田なえが、優衣の細い背中に声をかけた。
「あ、いや、おれの友達らしいんで」
よくは分からないけど、そうらしい。
「じゃなくて、FK優衣でしょ!」
「あ、ああ、そっか。冗談冗談」
優衣はくるり反転、わははと笑いながら洋子が倒された場所へと向かった。
つい、松島裕司時代の癖で、ゴール前に行ってしまうところだった。
距離短いのは、おれが蹴るんだっけ。
しかし、おれにFKなんか蹴れるんだろうか。
この身体に染み付いている技術力のせいなのか分からんが、昨日の練習では悪くないボールを何度も上げることが出来ていたけど。
などなど心に呟きながら、ボールをセット。
「もっと後ろ!」
主審に注意されて、ずっと後ろに下げさせられた。
素で勘違いしてた。でも、どこだっていいじゃねえか。こっちはFK初心者だぞ。
笛が鳴った。
優衣は助走のため、ボールとの距離を空けた。
と、ここで優衣の動きがぴたり止まった。
「あれ、そもそもどんなふうに蹴るんだっけ?」
やべ、忘れた……
昨日、あんなに練習したのに。
つう、とおでこから冷や汗がたれた。
猛暑のため、そうでない汗もどばどば出ているので、どの部分が冷や汗なのかよく分からないけど。
「優衣~、頼むよ~」
ゴール前で、
うるせえなエロ姉ちゃんは、そもそも、こっちは蹴り方を忘れて焦ってるってのに。
いいや。
もうどこへでも飛べ!
「うおおおりゃあ!」
開き直った優衣は、ボールへ走り寄り、蹴り上げた。何も考えず、この身体にすべてを任せて。
だがしかし、どこへでも飛べは良いが、あまりにも酷すぎた。どこをどのように蹴ったものか、ボールはまるでボーリングのピンのように、強く真横へと跳ね飛んだのであった。
カウンター要員としてセンターサークル付近に残っていた、パッション熊本の
このような事態を誰も想定出来るはずもなく、相手ゴール前に上がっていたベイスパロウの選手たちは慌て戻り始める。
ボーナスチャンス得たりとばかりに走り出すのは勿論、牛尾望である。
攻め上がらずに残っていたのは、FKを蹴った優衣と、寺田なえの二人。攻撃を遅らせる対応は、なえの役割であるが、少し離れたところにいる
当然といえば当然だ。
まさか味方のFKからあんなに一瞬にして相手ボールになるなどと、誰が思うだろうか。
パッション熊本、牛尾望は、前に遮る物のない広大なピッチをぐんぐんと進んでいく。小柄なFWによく見られるが、彼女も俊足が売りの選手である。
ドリブルをしているのをまるで感じさせない。しっかりボールをコントロールしながら走っているはずなのに、百メートル走のようにただ単に全力疾走しているかに見える。それだけ、元々の足が速いのだ。
そしてついにペナルティエリアに侵入、いや、その寸前、あと半歩というところで、牛尾望はバランスを崩して、転倒した。
全力で追い上げた寺田なえが、彼女のユニフォームを思い切り引っ張って倒したのだ。
笛の音。
寺田なえに、イエローカードが出された。
無論、それを覚悟で止めたのだろう。
次節、出場停止だ。
「ゆ~い~」
寺田なえは、牛尾望を引っ張り起こしてやると、次いで恨めしそうな視線を優衣へと向けた。
「ごめーん」
そもそもおれにFKなんか蹴らせんじゃねえよ。優衣はそう思ったが、口に出しても仕方ない。とりあえず笑顔で両手を合わせて、ちょっと女の子らしい仕草で謝ってみたりなんかした。自分でやってて、気持ち悪さに鳥肌立った。
いまのファールにより、パッション熊本は絶好の位置でFKを得た。
先ほど熊本ゴール前にいた両チームの
ピンチを迎えることになったベイスパロウであるが、しかしながら、なえの判断が一瞬遅かったら失点、もしくはPKになっていたはずであり、それにくらべれば遥かにマシというものであろう。
「もう緊張病出ちゃったか?」
「え、なんだよそれ?」
緊張なんかしてたまるかってーの。このミスター
熊本のキッカーは、
ゴール前には、両チームの選手がごちゃごちゃとひしめき合っている。
ドン ドン ドン
と、両サポーターの太鼓の音。
ペナルティエリアぎりぎりで、ゴールに近過ぎるため、蹴る側として難しい面もあるだろうが、守る側としてもまた難しい距離である。
蹴る側としては、壁が近いため、それを避けるために打ち上げてしまうことが多くなりがちな距離であるが、良い場所へすとんと落とせさえすれば、高確率でゴールを狙えるだろう。
さて、どうなるか。
笛が鳴った。
白いユニフォーム、熊本の永瀬奈々は三歩ほどの短い助走でボールを蹴り上げた。
おそらく蹴る側としては完璧なのであろう、狙い通りなのであろう、というボールを、彼女は蹴った。
綺麗な軌跡を描き、選手たちの頭上をすっと飛び越えたかと思うと、ぶれながらすとんと落ちたのだ。
しかも、
それが得点という結果に結びつかなかったのは、ひとえにGK
おそらくは、わざとコースを空けて誘ったのである。
そして、鋭い横っ跳びを見せて片腕一本で弾いたのである。
秀美の弾いたボールをねじ込もうと、
GKのファインプレーに、場内から拍手が起きた。
秀美は立ち上がると、額の汗を袖で拭った。
まだベイスパロウのピンチは続く。
今度は熊本のCK。これを蹴るのもまた、永瀬奈々である。
ショートコーナーだ。近くにいる
外間恵理はくるりゴール前を向き、蹴り込む素振りを見せつつ、ファーでフリーになっていた矢田美津子へとグラウンダーの速いパスを送った。
「甘い!」
読んでいた優衣が飛び出してパスカット、熊本の波状攻撃に繋がりそうな芽を摘んだ。
前方中央で待っている寺田なえを目掛けて、強くボールを送ると、カウンターチャンスに自身も全力で上がり始めた。
その時であった。
優衣が、胸に痛みを感じたのは。
正確には、痛みをいま認識した、というべきだろうか。
いつからそうだったのかは、分からない。
刺すような痛みではない。もっと鈍い感じのものだ。
痛みだけではない。
加えて、血管という血管が詰まってしまったかのような、全身を襲う不快感。これも、いま気付いただけなのかも知れない。
自分自身の鼓動が聞こえそうなくらいに、心臓が、激しく、大きく動いていた。
それに合わせるように、どるっ、どるっ、と血管を粘液質な物体がぬるぬる押し出されていくような感覚。血液が、なんだかペースト状の物にでもなっているような。
あれ……
全力で、走っている、はずなのに、その、つもりなのに、後ろから後ろから、どんどん、抜かされていく。
おかしいな、なんだよこれ。
おい、ちゃんと走れよ篠原優衣。
ほんと遅えな、この身体は。真面目にやれ、てめえ!
などと心の中で自分自身に文句をいっていると、突然、心臓をわしづかみされるような激痛に襲われた。
低く、短く、そして鋭い悲鳴を上げた。
ふっ、とぼやける意識の中、一瞬にして視界が反転。
優衣は、前へよろけるように、ピッチ上に倒れ込んでしまった。
「ちょっと、優衣!」
寺田なえの叫び声が響いた。
気が付いた主審が笛を吹き、プレーを中断させた。
担架が要請された。
優衣の身体は運営スタッフたちに担ぎ上げられ、乗せられて、屋根のあるベンチの方へと運ばれた。
5
「おそらくは、軽い熱中症でしょうねえ」
石巻ベイスパロウのチームドクターである
「お前、ちゃんと水分補給してたのか。このクソ暑い中」
担架に横たわったまま、
「だって喉、かわいて、なかったし」
「それがそもそも熱中症の症状なんだよ。ったくもう。バカか」
前半三十三分。石巻ベイスパロウ、選手交代。
篠原優衣に代わって、
こうしてベイスパロウは、想定外の負傷退場により前半のうちに交代カードを一枚切ることになったのである。
試合再開。
優衣は、試合の残りをピッチの外から見ることになった。
担架から下ろされ、現在はベンチを一つ使って横になっている。額には冷やしたタオルを乗せられている。
試合中に倒れたのだから、本来は医務室で診断を受けるべきなのだが、優衣はそれを断ったのだ。
今日はどうせ出られないのだから、涼しくさえしておけばこれ以上悪くなることもないだろうし、とにかくこの試合を、石巻ベイスパロウのプレーを、目にしっかりと焼き付けておきたいと思ったからだ。
しっかり焼き付けるも何も、まだ夢半分
「どうも、すんませんね、くまちゃん」
うつろな表情で試合の行方を見ていた優衣は、元気のない声で、チームに迷惑をかけてしまったことを笹本監督に素直に謝った。
「気にすんな。お前を使ったおれがバカだっただけだ」
笹本がどういう気持ちでそういっているのかは分からないが、いずれにしても優衣には、黙ってその言葉を受け入れるしかなかった。
相当に、歯痒い思いであったことだろう。
ゲームプランを崩されたこと。勝負に対して熱い思いを持っていればこそ。
6
しかし、大卒で入団したその初年度、夏にとうとう公式戦デビューを果たしたその試合で、膝に大怪我を負い、引退。半年にも満たないプロ選手生活を終えた。
もう二十年近く前のことだ。
それからそのクラブで雑務の仕事を行ないながら、監督になるためにS級コーチの資格を取った。
しかしJリーグのクラブを始めとして、JFL、社会人リーグなど男子のチームからは、どこからも監督としてのオファーはなかった。元同期の選手、現在某J2チーム監督の推薦により四年前に、この石巻ベイスパロウにコーチとして就任、そしてその翌年、同チームの監督になった。
最初は女子サッカーをとことん軽視しており、それ故に憂鬱な気分にもなったし、選手たちに嫌な態度を見せてしまうことも多々あった笹本であったが、彼女らの一生懸命さに心打たれ、また、男子と遜色ない技術も持つ者もいることを知り、現在ではそのような気持ちは微塵も持っていない。
相手チームや審判に対しては、相変わらずな発言をしてしまったりはするが。
とにかく彼は、自分が走ることが出来ない分だけ、自分が試合することが出来ない分だけ、自分の分身ともいえるピッチ上の選手や試合に対しての思いは強い。
7
分かっている。
もちろん他人である
だからこそ、ただ勢いに任せたプレーでチームに迷惑をかけてしまったことは、本当に申し訳ないと思っていた。
もうどうしようもないことではあるが。
先ほどまで視界がぐるぐる回り、すべてが霞んだように見えていたが、それは知らず知らずのうちに回復してきていた。気が付かなかったのは、湿気を帯びた地面が凄まじい高温に熱っせられて、空気が
しかし、なんて暑さだよな、今日は。
暑いだけじゃなくて、むしむしも酷えし。
だってえのに、あんなに走り回っていて、こいつら、凄えな。
優衣は、このあまりに過酷な環境下で試合をしている彼女たちに、なんともいいようのない、しかし心を揺るがされるような強い衝撃を受けていた。
プロじゃないくせに。
流した汗が、一銭にもならないってのに。
好きだから、やってんだろうな。
サッカーをさ。
なんだか、懐かしいな。
こういうの。
ズンダマーレ宮城が、まだJFLにすら所属していなかった地域リーグ時代、自分も、平日の昼はアルバイト、夜は薄暗い照明の下で練習。休日も練習か、試合。こんな日々だった。
あまりにプライベートな時間がとれなさすぎて、彼女に愛想つかされて振られたりしたっけ。
試合は基本まっ昼間。
今日みたいな異常な暑さの中も、雪のちらつく極寒の中もお構いなし。とにかく安い運営費で試合を、という主催クラブに合わせるしかなかった。
それが、当たり前だった。
好きで、自分で選んだ道。
他にも進む道はあったのに、その道を、自分は選んだ。
サッカーをやることが、ただ好きだったから、とにかくがむしゃらに頑張っていた。
未来を信じるとか信じないとか、そんなことはどうでもよくて、ただ、現在を生きていた。
時として、自分への疑問を持つこともあったけど、飯を食い空気を吸うがごとく自然に、気がつけばサッカーのために他の全てを捨てて生きていた。
優衣は、松島裕司としての過去を振り返りながら、熱中症にぼーっとした視線で目の前の試合を見ている。
視線はまだ定まらないが、もう意識そのものは完全に回復し、はっきりとしていた。気持ち悪くて吐きそうではあったが。
汗を飛ばし、走り、叫び、懸命にボールを追う両チームの選手たち。
おんなじなんだな。
こいつら。
あの頃の、おれと。
金も貰えやしないのに何故そんな思いをしてまで、って、先日、茜ちゃんに聞いたりしたけど、そんなの、聞くまでもないことだったな。
だってさ、おれだってついさっきまで、あんなにすっげえわくわくする気分を味わっていたじゃないか。ただ試合をやれるという、それだけのことで。
しかしほんとこいつら、びっくりするくらい生き生きと、輝いてるよなあ。
じゃあさ……
……ということはさ、
おれも、輝いていたんだ。
アルバイトとサッカーだけの、ぎすぎすと、ぎらぎらとしていた頃、自分は何なのだろうかと自問することが何度もあった。
そうしたこれまでの人生が、いま目の前のピッチにて流されている彼女らの汗や、叫びによって、拍子抜けするほどにあっけらかんと肯定されたような気がして、ちょっぴり嬉しい気持ちになっていた。
でもそう思うということは、Jリーガーになってからのおれは、輝いていなかった?
いや、そんなことはないはず。それじゃああまりに虚しいじゃないか。
そんなことに優越などつけてみても意味がない。
きっと、どっちも輝いているんだ。
尊重し合わなければならない感情なんだ。
それよりも……
優衣は熱中症による気持ち悪さをこらえて、目の前の試合に集中した。
彼女らの戦いをしっかり目に焼き付けようと。
その矢先である。
前半四十二分、石巻ベイスパロウは失点した。
どちらが二部上がりだか分からないほどに、素早いパス回しにそれはもう見事なまでに翻弄され、崩されて。
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