訓練を始めよう(4/4)

「さて、じゃあ今日から訓練を始めよう」


 場所を移し、ここは校舎裏の休憩所きゅうけいじょ。休憩所、とはいってもテーブルとベンチ、ぽつねんと設置された水道がある程度ていどで他には何もない。学校の敷地しきちと外は煉瓦造れんがづくりのへいで区切られているので見通しもよくない。しかし利用者がまったくいないというわけではなく、自主練じしゅれんで運動を行った生徒が給水きゅうすいおとづれたり、静かな場所を好む生徒が昼食をりにきたりと意外と需要じゅようはある。ちなみにケントは両方の理由で御用達ごようたしさいわいなことに放課後ほうかごである現在は先客はいないようだった。


 集まる前にケントとマルティナは運動着に着替え、それぞれ木剣を持参じさん。リアは筆記用具を持ってくるように指示されていた。


「それじゃあリアは座って」


 うながされるまま、リアがベンチに腰掛こしかけるとその眼前のテーブルにケントが持ってきた肩かけかばんから何やら取り出して並べていく。


 初心者向けの図が大きい魔法文字の教本、紙束かみたば。その二点がリアの視界をめた。


「……見るからに勉強するぞって感じだな。私はこういうのは見るだけで頭が重くなる」


 となりでその様子を見ているマルティナがげんなりとつぶやいた。当のリアもあまり気乗りはしないのか若干じゃっかん表情がくもっている。それも当然と言えよう。実技のみならずこういった座学も不得手であるからこそ彼女は落ちこぼれと呼ばれるのだ。そもそも勉強するぞと言われて喜ぶような者なら落ちこぼれにはなっていまい。


「うぅ……私、馬鹿だから教えててイライラするかもだけど……うん、頑張るよ」


 気乗りしなかろうがやるしかない。決意を新たにリアは小さくガッツポーズ。


 しかしケントはそれにうなづくでもなく小首をかしげた。


「別に今からやってもらうことは難しいことなんかじゃないよ。むしろ馬鹿正直に向き合う根気こんきが必要なことだ」


 紙を一枚、リアの前へ。自分で持ってこさせた鉛筆をにぎらせ、教本の最初の方のページを開く。


「アド」


「え?」


「続けて発声して」


 言われるがまま、その魔法文字をリアも発声する。


「次に紙に書く」


 紙の左上に魔法文字のアドを書く。


「発声してる時と書いてる時には頭にその文字の形を強くイメージすること。いいね?」


「う、うん」


 リアが頷くを確認すると、ケントが教本をぺらりとめくる。


「バルト」


「ケント君、これって……」


 幼い頃にやった文字の書き取りを想起したリアはおずおずとケントに声をかける。


「リアが魔法を上手く使えないのは、呪文をしっかりと精神で意識できてないからだ。だから魔法が不完全な形で顕現けんげんしてしまっている。発声による補助がなければ顕現すらしない。だから待機詠唱ができない。だったら解決策は簡単だろ?」


 そう、意識できていないなら、意識できるまで精神にり込んでやればいい。


「見て、声に出して、書く。その三段構えで魔法文字を頭に叩き込む。気負きおう必要はまったくない。集中して、ひたすらり返せば必ず成果が出る。紙がなくなったらここからとってくれ」


 そう言ってリアの横に肩掛け鞄を置く。上からのぞき込むとその口から白紙の紙が大量にまっているのが見えた。ひくっとリアのほほが引きる。


「これから一週間、リアはただこれだけをやってくれ。教本は貸すから僕が見ていない時もやってほしい。声が出しづらい場所ならそこは省力しょうりゃくしてもいい。とにかく、少しでも時間ができればやってほしい」


 茶化すわけでもなく、そう真剣に言うケントと今しがた一文字目が描き込まれた紙をリアは交互にながめた。


「……ほんとに、こんな簡単なことを続けるだけでいいのかなぁ」


 そのつぶやきにケントは首を横に振った。


「簡単じゃないよ。集中を維持することは疲れるし、書き続ければ鉛筆を持つ手も痛くなる。それでも続けるんだ」


 どんなに簡単な行為でも、それを続けるということには多大な労力をともなう。行為が単調であればあるほど所謂いわゆるきも早い。それでも続けることができるかどうか。やがてそれを苦痛に思わなくなった時、見違えた自分に驚くことだろう。


 馬鹿正直に向き合う根気が必要とケントは言った。その言葉通り、一つのことにしか集中できない馬鹿の方が余計なことに気をとられずにすむ。本当にこれで成果が出るのかなどと自分の行為に疑問ぎもんを抱くこともなく邁進まいしんできる。馬鹿と天才は紙一重かみひとえとはよく言ったもの。馬鹿正直に一つのことに向き合った者がいずれ天才と呼ばれるのだろう。


「ケント君もやったことあるの?」


 自分もやったことがあるかのような物言いにリアがたずねると、ケントはもちろんとうなづいた。


「ここに入学する前だったけどね。ただ、親に紙を使い過ぎて怒られたから砂場に木の棒で書いてた」


 ケントはやおら落ちていた小枝を拾うと地面にしゃがみ込み、砂地に文字を書き始める。


「ヴェム/イオ/エテ/デイ――〈風舞ウィンド〉」


 書いた文字がどこからともなく巻きあがったつむじ風にさらされて霧散むさんする。残ったのはまっさらな砂のキャンパス。


「――こうやって魔法で文字を消して、そしたらまた新しく書く。これを魔法を教わってから毎日続けた。二、三年ぐらいかな。それでもここに入学するまでは待機詠唱できるかできないかぐらいだったから、多分僕はあまり魔法が得意じゃないんだと思う」


 そんな、河原かわらで石をみ上げてはくずすかのような作業を延々えんえんと二、三年。その途方とほうもない根気にリアとはたから話を聞いていたマルティナは脱帽だつぼうする思いだった。


「そんな僕でもできるようになったんだ。魔法的素養そようの高いマギアスのリアなら僕ほど時間はかからないさ。大丈夫。君ならできる」


 天才の知られざる努力。それを知ったリアは、たいした努力もせずに自分は落ちこぼれだと、自分を見限っていたのが恥ずかしくなった。天才と呼ばれるケントが二、三年。ならばそうでない自分がそれ以下の努力であきらめるのは早すぎる。本当に才能が皆無かいむなのかを判断するにはそれだけ時間が必要なのだ。そうでなくては道理に合わない。


「――分かった。頑張がんばってみる」


 そう言ってリアは鉛筆をにぎる手に力を込めた。今までも何度か努力しようと決意して、そして挫折ざせつしてきた。


 しかし今回は、不思議と頑張れそうな気がしていた。それは実際にそれをげた人が隣にいるからということもあるが、それ以上に。


 ――大丈夫。君ならできる


 教師にすら半ばあきらめかけられていた自分に、そんな言葉をかけてくれた人にこたえたかった。


「バルト……ツェル……」


 言われた通りに黙々もくもくと書き取りを始めたリアにケントは一つ頷くと、もう一人の落ちこぼれに向き直った。


「それじゃあ次はマルティナさんだ」


「よろしくたのむ。言われた通り、木剣は持ってきたぞ」


 書き取りに集中しているリアから少し離れて、ケントとマルティナが向き合う。


 さっそく訓練に入ろうとするケントをマルティナの手が制した。


「――だが、その前に」


「ん?どうしたの?」


 怪訝けげんに思うケントに対して、マルティナは片腕を腰に当てて不満を表明して見せる。


「私達は同じ小隊だ。なのに、リアは呼び捨てで私はさん付けか?」


「あー、確かに。悪かったよマルティナ」


「うむ。分かればいいんだ、ケント」


 満足気まんぞくげにマルティナが頷く。その拍子ひょうし後頭部こうとうぶまとめられた赤髪が尻尾のようにれた。リアと違って、こういうさばさばとした態度たいどだとケントとしても気負わなくてむ。


「私の問題点はもう分かっている、と昨日言っていたな?遠慮えんりょせず言ってくれ」


 真剣な面持おももちでそう問うマルティナにケントは一つ頷いた。


「まず、マルティナは運動神経そのものは悪くない。多分、スタミナもちゃんと人並みはあるんじゃないかな」


「本当か?それならよかった。どうして成績が下がるのか分からなくて、筋トレをした甲斐かいがあったというものだ」


 そういって喜色きしょくを浮かべるマルティナ。ケントはまだほんの少ししか彼女と会話をわしていないが、それでも彼女が真面目な性格であることは分かる。自分の成績の低迷ていめいに対して何かしら対策たいさくを立てようとしていたことは想像に容易たやすい。


 問題はその対策が成績低迷の解決に直結しなかったということだ。


「――筋トレをすることは勿論もちろんいいことだ。体力があるにしたことはない。だけど、マルティナの場合、それが人並みにあったからこそ自分の問題点に気づけなかった」


「?」


 ケントのみょうな物言いにマルティナが首をかしげた。


「よし、じゃあまずそこで何度か素振すぶりをしてみてくれ」


「分かった」


 素直すなお承諾しょうだくしてマルティナが木剣を正眼せいがんかまえる。


「――フッ!」


 するど呼気こききながら、一振り、二振り。木剣が空をく。それを何度か見ていたケントはほどなく声をかけてやめさせた。


「うん。やっぱり。全然ダメだ」


 流石さすがわけも分からず素振りをさせられ、それで全然ダメだと言われるのにムッとしたのかマルティナが口をとがらせる。


「全然ダメって……素振りに良いも悪いもあるのか?」


「ある。やって見せるから見てて」


 と、ケントも持参じさんしていた木剣を取ってきてマルティナの横に並ぶ。


「――ハッ!」


 シュンッ


 み込みと同時に振るわれた木剣が鋭く振るわれ大気がく。一振りごとに振るう前とまったく同じ体勢たいせいまで戻り、そしてまた一振り。それを数度繰り返したのち、マルティナを見やる。


「……正直、私と何が違うのか分からないだが」


 いまいち違いが分からなかったマルティナが憮然ぶぜんとして言う。何となく自分より動きが洗練せんれんされている、思ったのはせいぜいその程度ていど


「剣を振るう時の姿勢しせいや足運び、重心移動……そういった部分がマルティナはできてないんだ。今の状態じゃただ腕の筋肉で剣を振っているだけ。それじゃ上手うまく力が伝わらないし、怪我けがの原因にもなる。剣で打ち合った後に手首が痛くなったりしない?」


「……なる。しょっちゅうだ」


 木剣をにぎる手、その手首をマルティナは見やる。なまじ体力がある分、腕の筋肉で剣を振るうことができてしまうのが問題だった。それは自身の肉体に大きな負担ふたんをかけてしまうし、何より持ち得る力を満足に発揮はっきできない。


「まずは素振りの型を完璧かんぺきにマスターしよう。腕で剣を振るんじゃなく、身体からだ全体で剣をあやつることを覚えるんだ」


 ケントはそう言うが、いまだマルティナは渋面じゅうめんのまま。


「言いたい事は分かるが、実技じつぎで素振りと同じ体勢で剣を振るうことなんてないだろう?自分も動くし、敵も動く。正直そこまで意味のある訓練くんれんとは思えないのだが……」


 だからこそ今までそれをあまり重要視じゅうようしせず、筋力トレーニングなどに自主練じしゅれんの時間をついやしてきたのだろう。結果、腕力で剣を振るうことにれ、型はどんどんゆがんでいく。


「そんなことはない。ただ正面から剣を振るう。この一動作の中に剣をあつかう基本は全て収束しゅうそくされてるんだ」


 そう言い、ケントはまた正眼から木剣を一振り。


「足運びや重心移動は剣を扱う上での基本だ。正面から剣を振るう時にそれができていないのに、他の場面でそれができるわけないだろう?ここができて、ようやっと他に応用おうようができるんだ。剣技に限らずどんなことも、基礎きそができてないとそれ以上はない。そうだろ?」


「確かに……」


 マルティナにしろリアにしろ、他の者より自分がおくれているのを少しでも取り戻そうと無理に他の者と足並みをそろえようとしていた。結果、基礎ができずしてそれ以上ができようはずもなく、何も得ることなくまわりばかりが先に進んで行く。どんどんと周囲から取り残されていく。どんどん落ちこぼれていく。


 重要なのは、無理に周囲に合わせるのではなく、自分ができていない場所にまで立ち返ること。そうして基礎から土台を組み上げていくこと。それに気付けるかどうかだ。


うたがってまなかった。ケントの言う通りだと思う。よし!私に型を教えてくれ!」


 一転、気持ちを切り替えてマルティナは木剣を構えた。もはやそのひとみに迷いはない。


 自分なりに努力して、駄目だめだった。ならばもう全面的にケントを信用する他ない。吹っ切れた、とも言えなくもないが、この天才の言葉には信用に足る重みがあった。


「もちろん。じゃさっそく……少しあごを引いて、両足はもう少し開く。肩の力を抜いて」


 言われた通りに体勢をととのえようとするが、いざちゃんとしようとするとそれがなかなか難しい。


「ちょっと足を開きすぎかな……うーん……」


 マルティナもそうだが、教えるケントもなかなか苦戦していた。そもそも彼自身も人に教えた経験がほぼないのだ。理屈りくつは分かっていても、なかなか思うように言葉にすることができない。


 隣で同じように木剣をかまえて手本を見せるなどしていたケントだが、なかなか思うように伝わらないのでなんとなしにマルティナの背後に回り込んで後ろから彼女の浅黒い色の手首に手をえた。


「っ!」


「少しりきみ過ぎてるかな……もう少し力を抜いて」


 何となしに視線をやった先に、リザイド特有の硬質こうしつ光沢こうたくを放つうなじがうつる。どんな感触がするのだろうかと漠然ばくぜんとケントが思っていると不満げなたてに割れた瞳孔どうこうがすぐそば抗議こうぎしていた。


「……あまりそうは思えないかもしれないし、がらじゃないという自覚もあるが。私だって女なんだ。急に異性に触れられれば多少力みもする」


「あ……ごめん」


 咄嗟とっさに謝って二歩三歩とケントは後ずさる。あまりにデリカシーがなかった。


「別に嫌というわけじゃないが、今後は一声かけてからにしてくれ」


 何となくお互いに居心地が悪く、どちらともなく咳払せきばらい。今後は気を付けようとケントは心にちかう。


「……よし、仕切り直そう。一旦いったん姿勢を戻して深呼吸」


 体内の空気と共に、双方とも横にれた意識をリセットする。


 それからマルティナはケントの指南しなんの下、素振りの型を徹底てっていして練習した。ちゃんとした型を理解した後は、それを維持いじして素振りを続ける練習に入る。ここからは根気の問題だ。その動きが身体にみつくまで何度も何度も繰り返すしかない。途中とちゅうからケントも横に並び、素振りを始める。


 リアの呟く魔法文字の発声と二振りの木剣が空を裂く音がうららかな午後のざしの下にひびく。何度か近くを通りかかった他の生徒が珍妙ちんみょうなものを見るかのように好奇の視線をそそぐが、集中した三人には気にならなかった。天才と落ちこぼれ、好奇の視線にさらされるという意味では似たようなものである。


 いくばくかの時間が過ぎた。陽がかたむき始め、生徒達が帰り支度じたくを始めるころ、ケントらも今日の訓練を切り上げた。


「よし、今日はここまでにしておこう」


 ケントが少しばかりひたいにじんだ汗をすず夕刻ゆうこくの風でかわかす。現在は魔法を待機ストックさせていないのでいつもの無表情よりも清々すがすがしい表情をしており、そこに疲労ひろうの色はない。むしろ心地よさそうですらある。


 しかし、隣で同じように木剣を振るっていたマルティナはそうはいかないらしく、息を切らしてその場に座り込んだ。テーブルでずっと書き取りをしていたリアも疲労感からテーブルに突っした。


「う、腕が重い……」


「指が痛いし、右手が真っ黒だよぅ……」


 二人がを上げるのも無理はない。練習を始めてからかれこれ二時間と少しはっている。その間、黙々もくもくと同じ作業を繰り返していたのだ。れていなければ相当きつい。何より同じことを延々えんえんと繰り返すという行為は肉体以上に精神を疲労させる。そして精神の疲労は肉体の疲労を加速させる。


あつい……」


 地面に座り込んだマルティナがやおら運動着のすそに手をかけたかと思うとガバッといきおいよくぎ捨てた。不意の動作に条件反射的にケントの目が行く。


「ふー……」


 運動着よりもうすいシャツをあおいで身体からだに風を送るマルティナ。布地ぬのじれる度に意外とゆたかな胸元があらわになる。


 筋トレをしていた、と言っていたのは事実のようで無駄むだ脂肪しぼうのない腕部わんぶ。しかし女性的な丸みが失われたわけでなく無骨ぶこつ印象いんしょうはない。外気がいきさらさている肩やひじには金属質な光沢があった。それはかつてあったうろこ名残なごりと言われている。


「……ケントくぅん?どこ見てるのかなぁ?」


 背後からたしなめるように名前を呼ばれてはたとケントは我にかえった。


 同時、マルティナもあっと小さく声を上げて胸元を両手で隠した。


「これは、その、リザイドは体温調節が苦手なんだ……。だから、熱いと薄着にならないと駄目で……」


 実際にこれだけ運動をしていながらマルティナはほとんど汗をかいていない。これは彼女個人の体質なのではなく、リザイドという人種の特徴とくちょうなのだ。人間と比べて汗腺かんせんの数が少ないのである。発汗はっかんによる体温調節が苦手な以上、衣服による体温調節が重要になる。


 もっとも、マルティナのほほ上気じょうきしているのは体温のせいだけではあるまい。


「見苦しいものを見せてしまったな……すまない」


「いや、見苦しいだなんて、そんなことは、とにかくごめん!」


 あわててケントは一回転。と、今度は座ったままのリアと目が合う。


「――マルティナちゃんって結構おっぱいあるよね。少しでいいから分けて欲しいなぁ……」


 と、悲しいほどまっ平らな自身の胸に視線を落すリアにケントは、


「そんなこと僕に言わないでくれ……」


 と、ひたいを手で押さえてケントは嘆息たんそくした。成績以外の理由でもこれから一年気苦労きぐろうが多そうだ。


 少しばかり時間をとり、マルティナが元の運動着を着こんでから二人に向かってケントは語り掛ける。


「今日やったことは、僕が見ていない時でも時間がいた時にはなるべくやってほしい。たくさん時間をついやせばそれだけ身につく。今はまだ他のことは考えなくていい。次の小隊演習までの一週間、これだけに集中するんだ」


 横に並んだ二人が頷くのを確認してケントも頷く。


「二人が僕の言うことを信じて、本当に真剣に取り組んでくれたのなら一週間だけでも効果はあるはずだ。だから、現状げんじょうを変えたいなら、落ちこぼれから卒業そつぎょうしたいなら、僕を信じて努力してみて欲しい。大丈夫。君たちならできるさ」


 リアも、マルティナも。もうどうすればい上がれるのか分からないほどのどん底へと落ちこんでしまっていた。できないことが当たり前になってしまっていた。だからもう誰も、自分自身でさえ自分に何かせるとは思えなくなってしまっていた。


 自分自身に期待できなくなってしまっていた。


 だけど、だからこそ。自分自身ではなく、他の誰かが期待してくれるというのならば。


「正直、自分じゃもうどうすればいいか分からない。だから、全て君にゆだねる」


「私も!」


 そう言う二人の落ちこぼれの少女に天才と呼ばれる少年は首を振る。


「僕は頑張り方を教えるだけ、頑張るのは君たちだ。君たちは君たちで自分を変えるんだ」


 結局、教えた練習をちゃんとするかどうかも彼女たち次第しだい。全ては彼女らがどこまで真摯しんしに練習に打ち込めるかによる。ケントはその手助けをしているに過ぎない。


「それじゃあ今日はここまで。明日の放課後ほうかごもまたここで。とりあえず一週間、頑張ろう」


「うん!頑張る!」


「ああ!次の小隊演習で他のはんを見返してやろうじゃないか!」


 それから次の小隊演習の日まで、三人は毎日この場所に集まってきもせずに同じ鍛錬たんれんを繰り返した。


 それ以外の時間も、リアとマルティナは可能な限り書き取りと素振りを行った。リアの右手はいつも黒鉛こくえんうつって真っ黒だったし、マルティナの手には肉刺まめが出来た。それでも彼女らはケントの言いつけを守って鍛錬を続けた。もはや頼れるのはケントをおいて他になかったというのもあるが、毎日放課後はケントもまったく同じ鍛錬に付き合ってくれたのが大きかった。


 書き取りに付き合ってくれる日はケントもリアと同じく右手を真っ黒にしてくれた。


 素振りに付き合ってくれる日はケントも共に汗を流してくれた。


 それらを無表情で、何の文句もんくも言わずに共にしてくれる。そして二人の落ちこぼれは、その無表情の意味を知っていた。この天才もまた日々鍛錬を繰り返しているのだと。


 だからこそ、一人じゃなかったから、頑張れた。


 そして時間は、矢のように過ぎていった。

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