18『逃げろ、碓氷!(後編)』


いた、かな……」


 あの後、なんとか追ってくる雨瀬を振り切った俺は人気ひとけのない、尚且なおかつ校舎からの喧騒けんそうすらも届かない体育館裏の陰に逃げ込んだ。

 ここなら簡単に見つかることはないだろう。


 ぜぇぜぇ肩で息をしながら、ぐでっと壁に寄り掛かる。

 日陰になったこの場所は、走り回って体温の上がった体には心地よかった。


 少しして、ゆっくり息を整えると俺は腕時計を覗き込む。

 結構な時間逃げ回っていたんだ。そろそろ昼休みが終わる頃合いだろう、と。

 むしろこの地獄の時間を終わらせてくれと願いながら確認する、が。

 時計の針は昼休みが始まってからたいして進んでおらず、四十五分の休み時間がまだ半分以上も残っていた。


 それを理解した瞬間、思わずがくりと肩を落としてしまう。

 あぁ、早く休憩時間(授業)に入りたい……。


 はぁ、と。体の力を抜くように息をけば、ふいにぐぅーっと、なんとも弱々しい音が体の内側から鳴り響いた。


「そういや、まだひる食ってなかったな……」


 ぐるぐるうなる腹を抱えながら、ついため息が溢れでる。

 雨瀬から逃げることに精一杯で腹が減っていることに気が付かなかったのだ。


 腹が減れば自然とため息も増えてくる。その調子で、またひとつ深い深いため息を吐いた、そのとき——。


 ザッ、と。砂を被った石の地面を踏む、足音が聞こえた。


 瞬間、人の気配を感じ取り慌てて振り向けば、そこにいたのは予想していた人物ではなく。

 意外も意外。まさかその人物がここに現れるとは一ミリも思っていなかった俺は間抜けな声を出してしまった。


「み、水篠……?」


 そう、そこに姿を現したのは水篠みずしの陽葵ひまり

 でもどうしてこんなところに、と思考をめぐらせたとき。

 ふいに小さな声が聞こえてくる。


「あっ、えっと……その……」


 視線の先の水篠は顔をそむけながらも、ちらちらとこちらに視線を向けて狼狽うろたえる。

 その普段とは異なる様子に首を傾げていると、ふと昨日の帰り際のことが脳裏のうりよぎった。いつもより段違いに不機嫌だった表情、声、雰囲気。

 思い出せば、またキュッと胸が締め付けられるようだった。


 やはり昨日のことで、なにか用があるのだろうか。


 水篠は尚も顔を背け、所在なさげな手を胸の前に組みながら口をもにょもにょさせている。

 そのなにか言いたげな様子を見ながらも、上手く心情をみ取ることができず、互いに無言のまま、俺はしばし水篠へと視線を向けていた。


 と、ふいに。その張り詰めた空気をぶち壊すように、ぐぅるるるーっと間抜けな音が体育館裏に鳴り響いた。





「…………」


 ふんぬぅッ——! と。

 飯をくれくれやかましい腹に強烈な一撃をお見舞いし、やがて空腹が落ち着くと。

 俺は再び水篠へと視線を戻した。


 すると水篠は目を丸くしていて、その視線がかち合うとまたしてもふいっと顔を逸らされてしまう。


 恐らくは、強烈な一撃を腹に叩き込んだおかげで内臓が揺れ、涙と鼻水でクシャクシャになった俺に何か狂気的なものを感じたのだろう。

 に、逃げろ、水篠。俺ガ俺デナクナル前ニ……。


 そんな感じに、痛みと吐き気でまともな思考を失っている俺をよそに、水篠はおもむろにブレザーのポケットに手を突っ込んで、なにやらモゾモゾと漁りだして。


 ゆっくり恐る恐るという感じにこちらに近づき、俺の正面にまで来ると。

 ずいっと、拳を突き出してきた。


 ビクッゥ。いま現在、拳に敏感(腹殴った)な俺は顔を歪めながら。


「…………え、なに……」


 突き出された拳に戸惑いながら、その拳と水篠のしかめっつらとを交互に見ていると。

 キッ、と鋭く睨み付けてきて、水篠はしぶしぶといった風に口を開いた。


「お腹、空いてるんでしょ」


 そう言って、ぱっと拳を開けば、そこには可愛らしい包みのキャンディーが乗っていて。

 俺はその予想外の振る舞いに驚いて、思わずガチガチに固まってしまった。普段ならこんなことはあり得ない。頭でもぶつけたのだろうか、それかやはり本気で怒っていらっしゃるか。


 いつもとは明らかに違う様子に恐怖すら覚えていると。

 んっと、顔を背けながら再度拳を突き出してきた。

 うながされるまま手を出せば、そこに二粒のキャンディーが落ちてくる。


 正直、どんな反応をするのが正解かわからなかった。

 とりあえず、社会の模範もはんに則って『ありがとう』だろうか……。


 俺は顔を上げて水篠へと視線を向ける。

 と、水篠は尚もしかめっつらのまま。手持ち無沙汰になった手をポケットに突っ込んだ。


「あーっと……なんだ、その……ありがと、な…………」


 その言葉を口に出すのが妙に気恥ずかしくて、しどろもどろになりながらボソっと呟けば、水篠は小さくコクリとうなずいた。

 そして、再び沈黙が訪れる。

 まさか俺たちにかぎってこれ以上会話が広がるわけもない。

 俺はてのひらに落とされたキャンディーをしげしげと眺めながら、気配だけで水篠の様子をうかがっていた。


「…………」

「…………」


 なんか、居心地が悪い。

 というのも、水篠は俺の正面に立ったまま話しかけてくるでもなく、ましてやこちらに視線をくれることもなく、ただひたすらその場に立ち尽くしているのだ。


 え、なに、なんなの? なんか怖いんですけど……。

 く、食えってことなのか……?


 とりあえず、ソワソワブルブルしているのと誤魔化すように。

 俺はキャンディーの包みを広げて、口の中に放り込んだ。


 うん、なんの味か全然わかんないけどなんか普通に美味い。つか甘い。超甘い。

 何味なのだろう、と考えながらペロペロしていると——。


 んっしょ、と。なにを思ったのか突然、水篠が俺の隣に腰を下ろした。


 いや、え……。これ以上この微妙な空気に耐えろというのか。

 お前も嫌だろ、この感じ……。


「…………え、えーっと、水篠、さん……?」


 戸惑いすぎてなんか『〜さん』付けで呼んじまった。

 俺がポリポリ頬を掻きながら、恐る恐る隣へ視線を向けると。

 ぷいっ、と。俺とは真逆の方向へ顔を背けられてしまった。


 ど、どうしろと……。

 困りに困り果て、俺も同じく水篠とは真逆の方向に視線を逸らした。


 こうも近ければ息をすることすらはばかられる。なんかいい匂いするし。なんかいい匂いするし。なんか以下略。 

 俺はすぐ隣に座る水篠に悟られぬよう、小さな小さなため息を吐いた。

 と、そのとき。同じタイミングで、隣から小さな吐息が聞こえた気がした。


「ね、ねぇ碓氷うすい……」


 名前を呼ばれ、振り向けば——。






「ッ……!」


 そこには鬼のような形相ぎょうそうで、こちらを睨み付ける顔があった。

 瞬間、一気に血の気が引いて、背筋には寒気が走り首筋から頬にかけてゾワゾワと鳥肌が大量に発生する。

 その瞳に殺意のあかい眼光をともすのは紛れもなく水篠陽葵で、俺はプルプルガタガタ悪寒に襲われていた。


 コココ、怖イ……!?


 今まで見たことないレベルの眼光に震えていると。

 不意に殺意に満ちたその顔が不敵に笑った。 


「碓氷」

「は、はいッ……」






「う、碓氷ってアレよね。えーっと……えー、そう! 歯並びがいいっ!」

「…………あ?」


 混乱。困惑。混迷。混沌。

 死の宣告を受けるのだと思えば、訳のわからないことを言い出した。

 ぽかん、と。間抜けに口を開けながら思考を停止させていると。


「あ、あと、指が長い! えーっと、肌がきれい! んー、ガリ勉! スタイルは……そうでもないか。えっと、えーと……あと、あとは……」


 コココココ、コワイヨォォォオオオオオッ!

 なんだ、コイツ……。まじでおかしくなってしまったのか……。

 あと地味に失礼なこと言われた気がする。


 ずずずい、と。すかさず距離を取れば、水篠がなにか思い出したように吐息を漏らした。


「あっ、そ、そう……!」


 すると、スイスイっと距離を詰めてきて——。


「えいっ!」

「痛あぁっ!?」


 いきなり肩パンされた。

 俺がもし野球やってたら挫折して左投げになって戻ってくるレベルの力で。

 急に攻撃されて驚きながら右肩をすりすり撫でていると、さらに猛攻が襲いかかる。


「えいっ! えいえいっ!」

「痛ぇ! 痛えっつの……!」


 おかしい。完全に様子がおかしい。

 今まで言葉の暴力はあったが、物理攻撃を仕掛けてきたことは一度もなかった。

 やばい、これ本気で怒ってるかもしれん……!


「えいっ! やー! とぉー!」

「ちょ、やめっ! 痛えっ! おい、つねるのはナシだろ! だ、だからやめっ、つつくな! や、やめろおぉ……って、いったあぁいっ——!!」


 あ、これ逃げなきゃ……。


 俺はすくっと立ち上がると、くるりと機械的にターンして全力疾走で駆け出した。

 こ、殺される!!


「あ……ちょ、ちょっと! 逃げないでよっ!」


 背後から俺を呼び止める声が聞こえた気がしたが、それすらも振り切ってただひたすら走った。


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