17『逃げろ、碓氷!(前編)』
チクタク刻む時計の針は午前七時三十分を少し過ぎたところ。
俺は一人ダイニングテーブルに腰掛け、新聞紙を広げていた。
サクッ、と。今朝のモーニングはママレードのジャムトーストにミルクたっぷりのカフェオレ。特に珍しくもないスタンダードな朝食だ。
ふと、トーストをかじりながら
思えば、こうしてゆっくり朝の時間を過ごすのは久しぶりな気がした。土日を挟んで、昨日
しかし、今日はしっかりと早起きすることができた。
昨夜、お隣の後輩に勉強の邪魔をされたせいで少し寝足りない感じはあるが、それでもカーテンを開け放った窓から差し込む、朝の日差しが心地良い。すっきりいい気分だ。
いつもより数十分も早く起きたせいで余裕を持て余しつつも、マグカップのカフェオレを飲みきった頃にはいい時間になっていた。
俺はひとつ大きな伸びをして、気合いを入れるように息を吐く。
さて、そろそろ学校の
そう思って、すくっと立ち上がったとき——。
ピンポーン、とインターホンのベルが鳴り響いた。
「なんだ、朝っぱらから」
非常識な訪問者に首を
そこには、見知った顔があった。
「…………」
なんというか、予想通りというのか。
またコイツか……。
思わず肩を落として深いため息を
さっきまでの気分の良さが一瞬にして崩れ落ちたようだ。
うちの玄関からインターホンを覗き込むのは、お隣さんで後輩の
雨瀬は
が、もちろん出るわけがない。無視だ無視。
さあ、顔でも洗って気分を変えよう。
俺はキッチン横のモニターから離れると、洗面所に向かって諸々の支度に取り掛かる。その間、再度インターホンが鳴ったが全力で聞こえないフリをした。
顔を洗って歯を磨き終えると、今度は二階の自室に上がって寝巻きのジャージから制服に着替える。その間、またもインターホンが鳴って、「起きてくださーい」だの「寝坊しますよ」だのと声が聞こえたが当然無視だ。スルーだシカトだ居留守だ。絶対に反応しない。
少しして赤いネクタイを締め、
「……仕方ない。ここは隠し通路から家を出るしかないか」
パパラッチに追われるハリウッドスターの気分で、俺は靴を持って庭から外に出ると、塀を越え雨瀬宅とは反対側のお隣さん家の隙間から家を出た。
大丈夫、塀と塀の隙間だから不法侵入にはならないよね! ならない、よね……?
うん、大丈夫だ。それにお隣の優しいおばさんならきっと許してくれる。昔、公園に落ちてた
まぁ、きっと大丈夫。そう信じながら、雨瀬がうちのインターホンを覗き込んでいる隙に俺は学校へとひた走った。
× × ×
今日は朝から雨瀬に追い回されていた。
今朝、学校へ着くや俺の後を追って登校してきた
俺はと言えば、午前中は男子の聖域、安地である男子トイレに身を隠し、どうにかやり過ごしていたが——。
昼休み。四限の授業が終わるや否やすぐさま男子トイレへ急いだが、先に授業が終わっていた他クラスの生徒でトイレに長蛇の列ができていた。
「な、なにごとだ……」
思わずぽつりと呟いてしまう。
昼休みにトイレが混み合うのはいつもの事だが、ここまで長い列ができているのは初めて見た。
まさか集団食中毒というわけでもあるまいし、一体どうしたというのだろう。
いや、そんなことを考えている暇すらなければ、呑気に列を並んでいる暇もない。
もう幾度もこの場所に身を隠したんだ。すでに割れている可能性は高いだろう。
危険だ。あんな噂がある中、人が大勢いる場所で見つかるわけにはいかない
俺は周囲を警戒し、雨瀬の姿がないことを確認すると小走りでその場を後にした。
二年の教室が並ぶ本校舎二階から移動し、一階に降りれば購買部へと向かう生徒たちでごった返していた。
この人混みに紛れてやり過ごすのはありかもしれない、と。
一瞬、脳裏をよぎったが、見つかった時のリスクを
どうしたものか……。
はぁ、と。思わずため息が溢れ出た。
肩を落とせば、一体なんのためにこうして逃げ回っているのだろうと馬鹿馬鹿しく思えてしまう。
いまさら、幾ら雨瀬と一緒にいるところを見られまいとしたところで、すでにアイツに知られてしまったんだ。こんな努力になんの意味がある。
「…………」
考えれば、再度ため息が漏れた。
初めは雨瀬芽依に迷惑をかけまいと……否、そうじゃない。
最初から俺は雨瀬を
こんな根も葉もない馬鹿な話をアイツに聞かれたくない、と。
けれど、もう手遅れだ。失敗した。知られてしまった。
誤解を解くことすら、
だったら、別に——。
しばし
違う。これ以上あらぬ誤解を招かないためにも隠すに越したことはない。
それに、あんな小娘に言いくるめられるのも俺らしからぬだろう。
思い通りにさせてたまるかよ……。
俺は左右へ大きく首を振り、ひとつ息を吐く。
それから人混みを掻き分け、人気のない校舎裏にまでやってきた。
ひとまず、ここまで来れば大丈夫だろう、と。
胸を撫で下ろす。
その時だった——。
「見つけましたよっ、先輩!」
「あ、雨瀬……ッ!?」
安全だと思っていたそこに姿を現したのは、
——雨瀬芽衣だった。
彼女はにやりと口角を上げ、腕を組みながらツンと薄い胸を張る。
「ふふん、先輩なら
「ッ……」
俺が下唇を噛み締めていると、雨瀬は俺が隠れるであろう条件の場所を幾つか挙げてにっこり笑う。
なんだこの敗北感……。
雨瀬は悪魔のような笑みを浮かべながら一歩二歩と、じりじり近づいてきた。
「さぁ先輩、観念して私とデートに行きましょう」
「……行かねぇつってんだろ」
「むぅー、先輩もなかなか頑固な人ですね……。実は私も、こう見えて結構しつこい女なんですよ?」
いや、見たまんまそういう奴だよお前。
なんならしつこい雨瀬芽依しか知らないまである。それも超絶鬱陶しいレベルで。
俺は雨瀬に向き直ると、少しばかり強い声音で言った。
「お前、なに企んでる……」
目を細め、正面の女子生徒へ鋭い視線を向ける。
まず間違いなく、雨瀬芽依はなにか企んでいるに違いない。
そうでなければ、なぜほとんど面識のなかった俺にあんな提案を持ちかけたんだ。
考えられる例は幾つかあるが、いずれも俺である必要はない。
彼女の立場ならばどうにでもなるはずだ。
こうして俺に
ぐぬぬ、と睨み付けていれば、雨瀬はこてんと小首を傾げた。
「先輩とのデートを企んでます、けど?」
「…………」
あぁ、うん。やっぱりそうくると思った……。
どうやら簡単には白状しそうにないようだ。
だが、しらを切るというのであれば自白させるまで。
こういうときは、まず相手の心を揺さぶるところからだ。
田舎のおふくろさんが……じゃなくて。
「そういやお前、人見知りは克服したのか……?」
ニッ、と嫌な感じの笑みを作りながら問うた。
これまで雨瀬と話した中で最も動揺を見せた言葉で不意を突く。
少しばかり胸が痛いが、こちらとてまんまと
たしかに手応えはあった。
いいタイミングで切れ味の鋭い短刀を刺し込んだつもりだった。
しかし——。
「もぉ、まだ言ってるんですかぁー。だからあれはお姉ちゃんが勝手に言ってるだけって言ったじゃないですかぁー」
雨瀬は動揺ひとつ見せず、何事もないように冗談めかして笑った。
「いや、でもあのとき、回覧板」
「あぁ、それ妹ですね」
「い、妹——っ!?」
「はい。えーっと、ま、マイっていう妹がいるんですよー」
「そんなわけ」
「いるんですっ!」
「いやいやいや……」
「……なんですか、うちの妹を亡き者にするんですか」
「あ、いや、……ごめん」
本気で睨まれて、思わず謝ってしまった。
妹? マイ? 母さんが言うにはお隣は二人姉妹だったはずだが。
いや、絶対嘘だろ……。あのとき、たしかに芽衣って聞いたぞ。
だが、架空の妹まで作って
ぐぬぬ、と唸りながら次の手を考えていると。
一転、にぱっと表情が華やいだ雨瀬がぐいっと腕にまとわりついてきた。
「それより先輩、私たちの初デートはどこがいいと思いますかー?」
「おい、なんで勝手に話が進んでんだよ……。つか、離せっ——!」
だ、ダメだ……。このままじゃ雨瀬芽依という泥沼に引きずり込まれてしまう。
仕方ない……。ここは退散っ! 逃げるしかない。
するり、と。俺は腕にくっつく雨瀬を振り払うと、一目散に駆け出した。
× × ×
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます