16.5『頑張らないとね 陽葵side』


「嘘つき……っ」


 あかりひとつけず、この部屋は真っ暗やみにおおわれていた。

 私は家に帰ってから服も着替えず、ひたすらベッドに突っ伏したまま。

 もうどれだけの時間、こうしているだろうか。


 他のことを考えようと思っても、数十分周期におとずれる何とも知れない感情の波に晒されて、そのたびに胸をえぐられるような痛みが刻まれていく。

 頭痛がするくらい悲しくて、寂しくて。

 また頬を熱い水滴がつたった。


 どうして私がこんな思いをしなければならないのだろう。

 いや、ほんとはわかってる。

 アイツが一年のあの子とイチャイチャ乳繰ちちくってるところを見てからおかしくなってしまったんだ。


 ふと、帰り際のことを思い出せば、またキュッと胸を締め付けられるような痛みに襲われた。

 視界がかすんで、上手く息ができない。


「約束、したのに…………」


 深いため息を吐いて寝返りを打てば、視線の先にタヌキのぬいぐるみがあった。

 そのぬいぐるみは胡乱うろんな笑みをたたえながらこちらを見据えていて、いつもは愛くるしいはずのその顔も、今日だけはなんだか憎たらしく思えてしまう。

 そんな自分に嫌悪して、私は大きく首を振るとそのぬいぐるみをそっと撫でた。


「ねぇ、ポンちゃん……。こんな約束を、子供の頃の約束なんかを、いつまでも信じてる私が馬鹿なのかな……」


 言っても、当然ポンちゃんがなぐさめてくれるわけがない。

 けれど、なにか嫌なことがあったとき、辛いときにポンちゃんに打ち明ければ、不思議と心に少しだけ余裕ができる気がするのだ。

 その怪しい笑顔で悩みなんて笑い飛ばしてくれそうな、優しい言葉で慰めてくれそうな、そんな温かみがある。


 けど、今日はもうポンちゃんは寝ちゃったみたいだ。

 笑い飛ばしてもくれないし、優しい言葉をかけてはくれない。

 私の心に余裕ができることもない。


 またひとつ、深い深いため息がこぼれでたとき——。

 ふいに、ブブブブブッ、とスマホのバイブレーションのあとに着信のBGMが鳴り響いた。

 スマホに手を伸ばして画面を覗きみれば、梨沙りさからの着信だ。

 私は慌てて体を起こして、声の調子を確かめると、スマホを耳に近づけた。


「……もしもし」

『あ、陽葵ひまり? 大丈夫? メッセージに既読が付かないから心配したよぉー』

「ご、ごめん……。気付かなかった……」


 梨沙は私が電話に出ると、安心したように吐息を漏らした。


 そ、そういえば二十時から通話を繋いで一緒に勉強しようって言ってたんだ。

 時計に視線を向ければ、すでに二十時をゆうに過ぎているし、長い時間待たせてしまっていたらしい。

 申し訳ないことをしたな、と罪悪感にさいなまれ、ちゃんと謝ろうと思ったとき。

 それを電話越しの声に遮られた。


『陽葵、なんか元気ない……?』


 ドキッ、と。大きな感情の波が込み上げてきたのを感じて、私はどうにかそれをおさえつけた。

 それからつとめて冷静を装って、私は口を開く。


「すごく元気だけど、どうして?」

『……嘘、やっぱり元気じゃないよ。なんかあった?』


 落ち着いた優しい声だった。

 ささやくようなその言葉は、私が心に縛りつけた硬い紐を解いていく。

 胸の奥底に抑えつけていたわだかまりが津波となって押し寄せた。


『私でよければ聞かせてくれない?』


 じわじわと胸が締め付けられるように痛くて、それを梨沙が優しく撫でてくれる。

 電話越しで、小さな吐息が聞こえたとき。

 私はとうとうその感情の放流を抑えきることができなかった。


「梨沙ぁ……っ、りさぁああああああ——っ! いつきがぁあああぁああぁぁあああ——」




 その後、完全に取り乱してしまった私を梨沙は優しくなだめてくれた。

 感情的で支離滅裂な私の話を聞いてくれて、

 私は次第に冷静さを取り戻していくにつれて羞恥で死にたくなった。


 煙がでるくらい顔が熱くなっているのがわかる。


 いつもはこんな感じじゃないのに……。

 こんな恥ずかしいところ見られたくなかったよ……。


 恥ずかしさでどうにかなってしまいそうな私はクッションに顔をうずめてもだくるしんでいた。

 と、ふいに電話の向こうで梨沙が体勢を崩した気配を感じた。


『なるほど、碓氷うすいくんが例の一年生と一緒にいるところを……』

「ん……」

『でも、碓氷くんにかぎってまさかあの噂が本当だなんてことはないと思うし。もしかしたらその雨瀬さんって子に弱みでも握られてるのかも』

「弱み? いつ——の弱みを握ったところで価値なんてないと思うけど……」


 言えば、電話の向こうから苦笑いが聞こえてくる。


『あ、あははー……。よ、弱みじゃなくても、例えば言い寄られてるだけとかさ。あの碓氷くんが他の女の子にホイホイ釣られちゃうとも思えないし』

「…………、なんで梨沙はそう思うの?」


 考えたくはないけれど、あの性格のあのいつきだって、あんなに可愛い子に言い寄られたら心を惹かれたっておかしくはない。

 けれど、梨沙は断じてそれはないと言い切るのだ。

 どこにどんな確証があってそう言うのか、私は知りたかった。

 問えば、梨沙はくすりと笑う。


『んー、そうだなぁー……。二人が似てるから、かな』

「……、またそうやって……」


 ——曖昧あいまいな言葉で誤魔化す。

 梨沙はいつも確信的な言葉では言ってくれない。

 私が問いただそうと口を開けば、それを遮るように梨沙が言った。


『あっ、でもこのままじゃほんとに付き合っちゃうかもねー、

「えっ——!?」


 さっきと言ってることが違う。

 思わず息をむが、梨沙は構わず言葉を続けた。


『まぁ碓氷くんも男の子だし、雨瀬さんが本気で言い寄ったらコロッと好きになっちゃうかも。いいの? 碓氷くん、取られちゃうよ?』

「だ、だめ——っ!」


 つい反射的に声を上げてしまうと、電話越しに笑い声が聞こえてきた。

 私は急激に体温が上がったのを自覚して、あわあわと言葉に詰まってしまう。

 すると、梨沙は笑い声を収めると、優しい声音で言う。


『じゃあ、取られないように陽葵も頑張らないとね』

「……が、頑張るって言っても」

『ちゃんと思ってることを伝えられたら、碓氷くんも振り向いてくれるんじゃないかな』

「ちゃんと、伝える……」

『うん、言葉にしなきゃ伝わらないよ』

「…………、んっ」


 うなずけば、梨沙はほんの少し間を取って、改まったように言った。


『頑張ってね、陽葵ならきっと大丈夫だよ』


 梨沙はどうしようもなく臆病な私の背中を押してくれたのだ。

 しかし、そう言われると途端に恥ずかしくなってきて、私は喉に絡まった違和感を揉み消すように咳払いした。


「……べ、別にそういうのじゃない、けど…………」

「……、今更だよ陽葵…………」


 電話越しに梨沙の呆れたような声が聞こえた。


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