16『リア充後輩女子はデートに誘いたい』


 晩飯を終えて風呂を済ませると、時刻は午後九時を回っている。

 この時間になると、俺は普段のルーティン通り自室の机に向かって、しこしこと英文読解の問題集を進めていた。


 ここ最近、遅刻が多いし今日はある程度進められたら早めに寝るとしよう、

 と、そう思いながらノートにシャーペンを走らせていたとき。


「——パイ……セ……、イ……」


 ふと、自分一人しかいないはずのこの部屋で女性の声がぼんやりと聞こえた気がした。

 机に張り付いていた意識がふいに途切れる。

 俺は静寂せいじゃくに満ちた部屋中を見回して、

 背筋にぞわぞわと寒気ががってくるのを自覚した。


 え、いまなんか聞こえたような……。

 いや、そんなはずはない。

 俺は信じないぞ……っ!


 腕をさすって鳥肌を振り払い、一度深呼吸をすると俺は再びシャーペンを握りなおした。


「んぱ……っば……えて、す……?」

「ひょえっ」


 思わず変な声を出してしまったと同時に、手からシャーペンがするりと離れて、ちゅうを舞う。

 カタタンッと、フローリングに転がったそれを拾おうとしたとき、

 ふと、窓の外からこちらを凝視ぎょうしする視線を感じた。


 お、おい……嘘だろっ……。

 ここ二階だぞ……っ!?


 首筋から顔にかけて鳥肌がざわわと広がる。

 恐る恐る。俺は顔を上げ、窓の外へと視線を向けた。


 すると、窓の外には、

 こちらをじっと見つめる女の影があった——。


「…………」


 思わず半眼になって、口を引き結ぶ。

 俺はスタスタと無言のまま、足早に窓際へと歩み寄った。

 すれば、窓の外ではこちらを見つめる女が表情をぱぁーと明るくして、

 期待に満ちたキラキラした目を向けてくる、が。


 ——ピシャッ、と。

 俺はカーテンを閉めて、その視線をさえぎった。

 さぁーて、勉強に戻ろうか!


 一つ小さな息を吐きながら、やけに清々すがすがしい足取りで再び机に向かう。

 それからしばらく、窓の外からブーブー文句をれる声が聞こえたが、

 完全に無視してひたすら問題集を解いた。


 と、数分後。

 ようやく思考がクリアになってきたところでまたしても邪魔が入った。

 今度はコンコンっと、自室の扉がリズミカルに叩かれる。

 それにしぶしぶ返事をすれば、母さんが入ってきて、


いつき、あんたに電話よ」

「ん、電話?」


 心当たりのないコールに首を傾げていると、母さんは固定電話の子機こきを手渡してくる。


「終わったら下まで持ってきてね」


 言って、母さんは一階のリビングへと降りていく。

 それを見届けて、俺は恐る恐る子機へと耳を近づけた。


「……もしもし」

『もぉーひどいですよぉ、先輩っ!』


 開口一番かいこういちばんのウザ絡みに思わず眉をひそめてしまった。

 電話口の相手は、プンスカ激おこ丸なお隣の雨瀬さん。

 俺は深い深いため息を吐いて、閉め切ったカーテンの先を睨みつける。


「なんでうちの番号知ってんだよ……」

『まぁお隣さんですから!』


 えっへん、とばかりに勝気に言ってのけるお隣さんもとい後輩に、俺は再度ため息を漏らした。

 どうせ電話を切っても、またなにか違う手段で接触してくるに違いない。

 そこまでされたらさすがに観念して、俺はしぶしぶカーテンを開け放つ。


 すると、雨瀬あませ芽依めいは向かいの部屋のバルコニーから身を乗り出してひらひらと手を振ってきた。

 そんなあつかましさ全開の後輩へじとっとした視線を向けながら、文句の一つや二つ行ってやろうと窓を開ければ。


「ほんっとひどいですよねー、先輩」

「……なんだよ」


 ぷくっとむくれた様子の雨瀬から、俺はつい視線を逸らしてしまった。


 雨瀬芽依は、もこもこの女子力全開な部屋着に身を包み、風呂上がりなのか湿しめりっけの帯びた亜麻色あまいろの髪をヘアバンドでまとめて前髪を上げている。

 そのせいで見えるきれいなおでこと、ほんのりと紅潮こうちょうしたふくれっつらに、

 思わず心拍数が跳ね上がった。


 ふいっと俺が顔を逸らせば、雨瀬は腰に手を当てて、そのつつましやかな胸を張る。


「大体、さっきも「断る」って、あんな酷い言い方ないと思いますっ。私の一世一代いっせいいちだいの告白をっ!」

「うわぁ、その一世一代超薄っぺらいんですけど……」


 思わずうぇー、と舌を出していると、雨瀬はむーっと唸りながら反論してくる。


「薄っぺらくないですよぉーっ! ほんとのほんとに一世一代だったのに!」

「ほんとかよ……」


 ぷいっとそっぽを向く雨瀬に、俺はひたいを抑え、ため息をこぼしてしまった。

 なぁにが一世一代の告白だ……。


「つかお前、とか言ってただろ。本当に告白だっつーなら俺も誠意せいいを込めて断ったさ」


 言えば、雨瀬はしらーっとした目を向けて、がくりと肩を落とした。


「結局フラれちゃうんですね……」


 それから、じーっと居心地の悪い視線をこちらに向けられて思わず身をよじる。

 その視線をくぐるように、俺は再度視線を逸らし一つ大きなため息を吐いた。


「で、今度はなんの用なんだよ」


 ぶっきらぼうに、ぞんざいに。

 言外に面倒くさいぞ、とにじませながら投げかける。

 だが、雨瀬はそれをするっとかわしにっこり笑顔。

 続いて、ピッと立てた人差し指をあごに当てながら視線をくうめぐらせた。


「えーっと、来週からGWゴールデンウィークじゃないですかー? せっかくのお休みですし、お買い物に行きたいなぁ〜、と」

「あ?」

「お買い物に行きたいなぁ〜」

「いや、聞こえなかったわけじゃなくて。なんでそれを俺に言うの……?」


 問えば、雨瀬はきょとんと小首をかしげながら、


「なんで、って、先輩と行きたいからに決まってるじゃないですか。他にあります?」

「…………」


 なんでさらっとそういうこと言えちゃうの……?

 直接的に言われた気恥ずかしさと、最後に付け足された挑発的な言葉に腹を立てながら、

 俺はしばし言葉に詰まってしまった。


 じわぁっと顔が熱くなっていくのを自覚しながら言葉を探していると、

 雨瀬は俺の顔をまじまじと覗き込んでくる。

 ふと、悪戯いたずらな笑みを浮かべて上目遣いであざとく視線を向けてきた。


「先輩、私とデートしませんか……?」


 こてん、と可愛らしく首を傾げてトドメを刺しにくる雨瀬。

 そのダメージは絶大で、心臓の鼓動が加速した。


 デ、デートって、精霊をデレさせるアレだよな……。

 さぁ、私たちの戦争デートを始めましょう、って。

 いや、戦争はまずい……。

 戦争ダメ、ゼッタイ。


 人生で初めてのデートを前にしてそんな現実逃避を繰り広げたのち、

 なんとか冷静を取り戻し、俺は首を左右に振った。


「…………しません」


 言葉にして、俺は小さく息をいた。

 あ、危なかった……。

 危うく俺の男の子なマインドがアライブしちゃうところだったぜ(混乱)。


「えぇー、いいじゃないですかぁー……」


 ごめんなさいすると、雨瀬は惜しいとばかりにバルコニーの手すりに項垂うなだれた。

 俺はなんとか上がった熱を振り払って、咳払いする。


「その提案には乗らないって言ってるだろ」


 言えば、雨瀬はむーっと唸りながら不満げな視線を向けてくるが、

 ふいに、はっと何か思い付いたように表情が明るくなった。


「あっ、そう! 参考書! 参考書買いたいのでついて来てくださいっ! 先輩、詳しいですよね!」

「ヤ、そんな取ってつけたような口実こうじつうなずくとでも思ったか? あと、さらっとガリ勉扱いするのやめてくんない?」


 俺がジト目を向けると、雨瀬は子供のよう駄々だだをこねはじめた。


「えぇええーっ、行きましょーよー! きっと楽しいですよ!」

「行かねぇっつの……」

「でも先輩、どうせ暇じゃないですかー?」

「暇じゃねぇし」

「じゃあ先輩はGW、なにして過ごすつもりなんですか」


 なにをすると問われ、腕を組んで考えてみれば。

 まず英文読解の問題集を終わらせて、古文と世界史もやっておきたいな……。

 つまり——。


「まぁ勉強だな」

「ほらー、暇じゃないですかぁーっ!」

「暇って、お前なぁ……。たしかに普段通りではあるけど……」


 たとえ世間がGWであろうと、俺の日常は変わらない。

 GWだからと言って、遊びに行こうとはならない。


 大体、いまはそんな気分じゃねぇんだよ……。


 ふと、数時間前の帰り際。

 ナイフのように鋭いあの言葉を思い出して、知らず目を伏せてしまった。

 少しして、それを振り払うようにかぶりを振って、俺は大きくため息を吐く。


「とにかく、暇じゃねぇんだよ。そういうのは友達なり誘って行ってこいよ」


 言って、窓を閉め、さらにカーテンをピシャっと閉じる。

 そのとき窓の外からなにか聞こえた気がしたが、それを無視して俺は三度みたび机に向かった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る