同じ顔の君は色素が抜けている

「うわ」


 路地を抜けた瞬間、鈴花の体はサンドバッグのような感触をもつ何かに衝突した。

 ゆっくりと後ずさると、逆光の中にひとつの大きな人影があり、その顔がゆっくりと鈴花を振り返るのがみえた。


「んだ、テメー」


 ギラリと反射する金属製のピアスをした金髪の男が、鈴花を見下ろしていた。


「あ、あの……」

「人にぶつかったらアイムソーリーだろ?」


 男の口の中に、キバのような歯がずらりと並ぶのが見えた。鈴花は己の顔から血の気が引いてゆくのを感じ、思わずその場で後退りをする。

 その瞬間、鈴花は男の上半身が裸であり、何も着ていないことに気がついた。


(……刺青……?)


 なぜすぐ気がつかなかったのか? 鈴花は男の体をもう一度観察する。男の上半身にはそれ自体が服であるかのように無数の刺青が刻まれており、まともな肌色は二の腕と首の一部にしか確認できなかった。

 そうまるで、タトゥーのTシャツを着ているみたいだ。それぞれは細かい英文のようなものの集合体で、密度を増して男の肌を包んでいる。


 あ、死んだな……。

 鈴花がそう悟った瞬間、視界の端に黒い布がちらりとあらわれた。

 路地の先で、黒いベールの女が道端で眠っている野良猫をみつめて立っている。さっきまで追われていたことを忘れているかのように、ただそのもふもふした球体に心を奪われている。


「腕時計!」


 鈴花が叫ぶ。目の前の男がぎょっとする。


「あれ、お前……」

「ごっ、ゴメンナサイ!」

「え? おい、コラ逃げんな!」


 鈴花が走り出す。

 その後ろを、男が追いかける。


「待てって、スズカ!」


 何故か、男が鈴花の名を呼んだ。

 しかし鈴花に男との面識はないので、無視して走っていると、鈴花の追跡に気がついたベールの女も、慌てて逃走を再開した。

 黒いベールの女、喪服を着た少女、半裸でタトゥーの男。

 妙な三人組の逃走劇に、道ゆく車が次々と止まった。赤信号にも関わらず、ベールの女は横断歩道を渡ろうとするので、いくつものブレーキ音と、クラクションが津波のように周囲へ響き渡った。


 鈴花は躊躇したが、自分も追われている身であるためにその音の洪水へ飛び込んだ。横断歩道の白と黒を飛び越え、黒いベールの女を追う。

 べこん、と変な音がしたので振り返ると、タトゥーの男が車の屋根を踏みつけて走っているのがみえた。


(なに、あいつ)


 想像以上にヤバい奴? そう考えながら、鈴花はとにかく走ることにした。止まってはいけない。あの男に追いつかれたが最後、私はあの車のようにぺしゃんこになって殺されるのだ。そんな確信を抱いた。


 ベールの女が人気のない通りの隅にある建物に入るのを、鈴花は見逃さなかった。

 ステンドグラスの嵌め込まれたドアが閉まるより早く、鈴花の腕が扉を突き飛ばす。

 真鍮製のドアベルが激しい音を鳴らす。

 鈴花が息をきらせながら中へ入ると、薄暗い室内が瞳孔を途端に膨張させ、鈴花の目をくらませた。


 そこは静かな、物置のような部屋だった。

 およそ木で作られた家具や、淡くとろけそうな明かりがついたランプがぽつぽつと柱を照らしており、どこか異国の気配がある。ハアハアと息をしながら立ち尽くす鈴花の背後で、ドアがゆっくりと閉まる音がした。


「……なに、この、部屋」


 薄闇のなか、鈴花は部屋の奥へと足を踏み入れる。明度の差に目が追いつかず、鈴花は足元に転がった何かに気が付かないまま、その場で派手に転んでしまう。


「痛!」


 ぶわ、と埃が舞う。


「あっ、あなた!」


 鈴花の足下には、黒いベールの女が縮こまって座っていた。女は鈴花をちらりと見ると、特に悪びれもせずにベールから覗かせた瞳をぱちぱちとさせる。

 女は長い睫毛をしていた。薄闇の中、その奥にひろがる瞳の宇宙はトパーズを粉々にしたような黄金色をしていて、鈴花は思わず女の顔に見惚れてしまう。


「え、えーと、あの」

「……」

「と、時計を返していただけませんか」


 女は何も答えない。

 その代わり、薄闇の奥からギイ、という古い扉の開くような音がした。


「八月十五日」

「……?」

「命日。それから、誕生日。あなたとその父君の、特別な記念日」


(誰?)


 鈴のような声がした。

 コツコツという靴音を響かせながら、部屋の奥から人影が現れる。


「亡くなった父君の腕時計と、君との出会いについて」


(おん……なのこ?)


 ランプの明かりに照らされて、声の主の姿が部屋の中央に淡く浮かび上がる。


「この時計から読み取れるのは、そんな〈記憶〉……《宇宙に奪われた腕時計》、三十六頁(ページ)より」


 ようこそ。

 そう言って、現れた少女は鈴花に向かって微笑んだ。


 人形のようにさらりとした、白い髪。

 白い肌、そして白い睫毛が雪のように少女の目蓋で揺れている。

 鈴花は驚いた。


(え……う、そ)


「?」

「私と、同じ……」


 少女は、鈴花と同じ顔をしていた。

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