Chapter 4. Cradle Song(子守唄) 3





 ルースは目を覚まし、自分が椅子に縛りつけられていることに気づく。


 冷たい風が、頬を撫でる。開け放たれた窓から、風が吹き込んでいた。


 彼女は、ルースの傍に立って子守唄を歌っていた。平らな腹を撫で、どこか不安定な音程で歌われる子守唄は、狂気を感じさせる。


「ああ、あなたの名前を聞くのを忘れてたわね。私はミザリー。あなたは?」


「……ルースよ」


 名乗り返し、ルースは様子をうかがう。


 どう考えても、彼女はまともではない。悪魔、なのだろうか。


 なぜか、腹の中がねじくれるように痛んでいた。


 ルース、と体の内で響く声があった。


(……誰?)


『私は、お前の中に宿った天使だ。力を貸してやるから、そこから出るように。お前の今の体で、悪魔の干渉を受けるととんでもないことになる』


(とんでも、ないこと?)


『あの悪魔祓いとの約束があるから、詳しくは言えない。だが、何とかしなくては』


(どうすればいいっていうの)


『あの女が近づいてきたときに、私の聖気を放つ。そのとき、お前の体は反動で死ぬほど痛むだろう。だが、痛みにのたうち回る暇はない。逃げろ』


(わかったわ)


 承諾したものの、本当にそんなことができるのかは皆目不明だった。


 そもそも縛られているのに、どうやって逃げればいいのだろうか。


 ミザリーは歌いながら、ベッドを整えていた。あそこに移されるのだろうか。なら、ロープを一度外すはずだ。そこがチャンスだろう。


 ルースは歯を食いしばって、ミザリーを待った。


「ねえ、ルース。あたし、ずっと赤ちゃんが欲しかったの。でも、いなくなっちゃったのよ。それで、願いを叶える薬があるって聞いたから、町までそれを買いに行ったの。すぐには叶えてはくれないんだって。若い女の子の体が必要だってさ」


 ミザリーは聞かれてもいないのに、とうとうと語った。


『悪食の悪魔が憑いているようだな。適当なことを言って、若い女を集めさせようとしているのだろう。悪食の悪魔は大概、若い女の肉が好きだ』


(えっ……でも、ここは娼館よね? いくらでも、いるんじゃないの? どうして、わざわざあたし……)


 そう考えたが、ルースはふと思い至った。ここでルースが会った娼婦は皆、二十は過ぎていた。若い女、というよりも少女を指しているのなら――たしかに、ルースが選ばれるわけだ。


 ミザリーはご機嫌で、ルースに歩み寄ってきた。手早くロープを外された瞬間、腹の奥が熱くなった。自分から、白い光が放たれる。天使の放った聖なる気だろう。目が眩む。


 ぎゃあああ、と叫び声をあげてミザリーが後ずさる。


 天使の言った通り、内蔵がねじれるように痛んだ。倒れ込みたいところだったが、ルースは気力だけで立ち上がり、よろよろと歩き出す。もう少しで扉のノブに手がかかる、というときに後ろ髪をつかまれて引っ張られた。


「放して!」


 体が痛いのに、髪を千切られるほど引っ張られて。目の奥まで痛んできた。


「あたしの赤ちゃんのためなんだ……! 大人しく、ベッドに横たわってよ!」


 ただでさえ弱った体はろくに抵抗できず、女とは思えぬ強力で首をつかまれ引きずられた。


(もう一度、さっきのをやって!)


 内なる天使に呼びかけるが、返事は芳しくなかった。


『これ以上やれば、お前が壊れる』


(でも!)


 このままなら、食べられてしまうではないか。泣きわめきそうになったとき、天使はぽつりと言った。


『お前は死ぬことはないはずだ。彼女が、させないだろう』


(かの、じょ……?)


 その代名詞に驚いていたとき、扉が蹴破られた。


「ルース!」


 フェリックスの声と共に、風を切る音がした。銃声と共に硝子の砕ける音がして、ミザリーが悲鳴をあげる。シュウシュウ、と体に染みた聖水から逃れるように、ミザリーがのたうちまわっていた。


 ルースから手は放れたが、すぐには動けず仰向けに倒れてしまう。


「ルース、無事か」


 フェリックスがルースを軽々と抱き上げて、ミザリーを見下ろす。


「……まだ初期だったか。不幸中の幸いだな。……ルース、怪我は?」


「大丈夫よ――。でも――」


 体が、軋むように痛んでいた。思わず、フェリックスの胸元をつかんで荒い息をつく。


 複数の足音がして、女主人シャーロットを筆頭に女の声が響く。その音の洪水を聞きながら、ルースは目を閉じ、ようやく意識を手放した。




 冷たい風が吹いている、と知覚する。頬を撫でる風を意識しながら、ルースは起き上がった。


 ベッドの傍らで、揺り椅子で揺れているのはミザリーではなかった。姉の、キャスリーン。


 変貌する前の地味な容姿で、彼女は小さく歌っている。


 キャスリーンも、歌は上手な方だった。だが、華がないと……自分で言っていたのだ。そんなことない、と家族は庇いながらも、エレンの次の歌い手にはルースを指名した。


「……姉さん」


 呼びかけても、返事はなくて。瞬きの間に、彼女の姿はかき消えていた。


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