Chapter 3. New Departure(新たな出発) 4
ルースが廊下に出ると、リッキーとジョナサンは居間を覗き込んでいるところだった。
「何やってんのよ……」
「シーッ。部屋にいないと思ったら、ここに二人が……」
ひそひそとリッキーに耳打ちされ、ルースもリッキーの上に頭を出して居間の様子を見やる。
ソファの背もたれから、フェリックスとジェーンの後頭部が覗いていた。
「……そうねえ。出発は早いほど……」
夜だから気を遣っているのか、声が低くてあまり聴き取れない。
「あっ!」
しかし急に、ジェーンが大きな声を出した。
「忘れてたわ。あんた、フィービーと私の喧嘩止めるときに、“それより良いことしよう”って言ったわよね?」
「な、何だそれえええ」
小さな声で、リッキーが反応している。
「言ったっけ?」
「言ったわよ。忘れたとは言わせないわよ!」
そこでジェーンが膝立ちになったので、完全に横顔が見えた。
「ちょ、ちょっと待てジェーン」
「待たないわよ!」
ジェーンが手を伸ばし、鈍い音がしてジェーンとフェリックスの頭が視界から消える。
「うおおお、ちょおおお」
興奮するリッキーを押しのけ、ルースは恐る恐るソファに近づいた。
「ルース、止めとけ!」
振り返ると、リッキーがジョナサンの目をふさいでいるところだった。
「あ、あのね二人共……」
どもりながら声をかけると、ジェーンが起き上がって振り向いた。
「あら、お嬢ちゃん。どうしたの?」
「どうもこうも……。何それ?」
「ふっふっふ。この子が隠してたの」
ジェーンは琥珀色の液体に満ちた小さな瓶に、チュッと音を立てて口づけた。
「畜生……それ高かったのに!」
フェリックスも身を起こして、こちらに気づいてきょとんとした顔になった。
「何か用か?」
「用事ってわけじゃないけど……。なんか、良いことするとか聞こえて……」
「良いこと、ってのは酒盛りのことよー。うっふふ、忘れてたわ。フェリックス、何やら懐に隠してると思ったら――これは美味しいわよ。お嬢ちゃんも一緒にどう? これは水割りが良いかしら? それともストレートで、あおっちゃう?」
ジェーンは陽気に誘ってきたが、馬鹿らしくなってルースは首を振って後ろを向いた。
「結構です。おやすみなさい」
「うん? おやすみ」
「何だ? ……おやすみ」
ジェーンに続き、呆気に取られたようなフェリックスの挨拶が背後に響く。
リッキーとジョナサンは、もういなくなっていた。
どうしてか顔が火照ってしまったので、ルースは外に出た。外は気温が低く、急激に体が冷えていく。羽織ったストールをきつく体に巻きつける。
(でも……こんなにホッとしたの、久しぶり)
叔父夫婦が定住を選んだ理由が、わかる気がした。
(そういえば、しばらく歌ってないわ)
旅路を急いだこともあり、公演はしばらくしていなかった。歌いたい、という気持ちも忙しさにかまけて忘れていた。
(ここでなら、良いかしら)
家から充分に離れてから、ルースは柵に腰かけた。
歌声が、喉から滑り出る。
どこの民謡か忘れてしまったが、羊飼いの歌だった。ここが農場であることを思い出して、自然にこの歌を選んでしまったのかもしれない。
初めはかすれがちだった声が、調子を取り戻して艶やかに染まる。
気持ち良かった。歌声が夜空に響く。歌っている、という感覚はルースにとって何事にも代え難い喜びだ。
たとえ姉のキャスリーンほど光輝な歌姫でなくても、かつてのエレンのような妖艶な歌姫でなくても、実母のヘイリーのような清廉な歌姫でなくても――。
(あたしにしか歌えない歌があると、思いたい)
歌が好きで、歌を歌いたい。誰か一人にでも、聴いてもらいたい。
歌っている間は、辛いことも不安なことも忘れられた。
自然と涙が出ていた。こんなにも自分は歌が好きなのだ、と再確認できたことが嬉しかった。
最後の一音を紡いで歌を終えると、拍手が響いた。誰かと思って振り返ると、フェリックスが立っていた。
「フェリックス……」
名前を呟いて、ルースは慌てて涙を拭った。
「何か哀しいことでもあったのか?」
「ううん、違うの。久々に歌ったら、何だか嬉しくなっただけ」
「そうか。いつ聴いても、ルースの歌は良いな」
「お世辞は結構よ」
気恥ずかしくて、わざと冷たい声を出してそっぽを向く。お世辞じゃないのになあ、と笑い声と共にフェリックスが呟いている。
「何か用?」
「このあたりもコヨーテが出る、って聞いたからさ。護衛してた」
「そうなの? ありがとう」
ここは素直に礼を言っておいた。
しばらく、二人は何も言葉を交わさなかった。
「ルース、話があるんだ」
フェリックスは唐突に、切り出した。
「何?」
「明日みんなにも話すけど――俺は、ジョナサンを治す方法を見つけるために、旅に出ようと思うんだ」
一瞬、何を言っているのかわからず――少し遅れて、頭を殴られるような衝撃がやってきた。
「一人で?」
「ああ。ジェーンに今回、同行を頼んだのは、そういう理由だ。俺が帰ってくるまで、ウィンドワード一家の護衛をやってくれと頼んだ」
何と返して良いか、わからなかった。もちろん歓迎すべき申し出だ。ジョナサンを治す方法があるなら、草の根を分けても捜したい。
なのに、どうしてだろう。フェリックスがいなくなるという事実が、ひどく怖かった。
「……わかったわ」
だけど「行かないで」とすがる理由は、見つからなかった。
結局、その夜はあまり眠れなかった。
ルースは目覚めて、すっかり高くなった太陽に慌てた。
急いで着替えてから居間に走ると、ちょうどフェリックスがアーネストとエレンに話をしているところだった。
「……そうか。治療法を捜してくれるのか」
「それなら――よろしく頼むよ」
アーネストとエレンは頭を下げ、フェリックスは困ったように微笑んでいた。
その顔を見て、「ああ」とルースは思う。彼は、ずっと責任を感じているのだと。
「それじゃ、準備してくる」
フェリックスは立ち上がり、外に出ていってしまった。
ルースは玄関から出てすぐ、馬に荷物をくくりつけているフェリックスの姿を目に留めた。
「おはよう、フェリックス」
声をかけて近づくと、彼はにこやかに笑った。
「ああ、おはよう」
「あのね、話があるの」
「話って?」
手を止めて、フェリックスはルースをまじまじと見下ろした。
「あたしも、連れていって」
少し間を置いてから、フェリックスはため息と共に告げた。
「――だめだ」
「どうしてよ!」
「来て、どうするんだ?」
「ジョナサンは、あたしの弟よ。何か、させて欲しい……」
ルースはうつむき、自分の小さくなる声に苛立ち――毅然として顔を上げた。
「弱音は吐かないわ。迷惑だと思ったら、途中で置いていっても構わない。だから――お願いよ」
わかっている。銃もナイフも使えないルースは、フェリックスにとってはお荷物だ。頭で、そうだとわかってはいても、割り切れない。
「路銀がかかるでしょう。あたし、歌で路銀を稼ぐわ」
「だけど――」
「一人より二人の方が、聞き込みの時間も半分で済むわ。だから、お願い――!」
ルースはただただ真っ直ぐに、フェリックスを見据えた。実際は何秒だったのか何分だったのか――永遠のように長くも一瞬のように短くも思えた間の後で、フェリックスは目を伏せた。
「わかったよ」
「本当?」
「それなら、俺も連れていけ」
いきなり第三の声が響いて、ルースもフェリックスも声の主へと首を巡らせた。
「兄さん?」
「ジョナサンは俺の弟でもある。ルース、歌だけよりギターもあった方が良いだろう」
話を振られ、ルースはぎこちなく頷いた。
まさか兄がこう切り出すとは思わず、フェリックスに負けず劣らず驚いてしまっていた。
「兄さんも?」
「ああ。聞き込みの効率も、三倍になるだろう」
「どういう風の吹き回しかなあ。でもまあ、有り難いといえば有り難いよ。路銀は確かに不安だしな」
フェリックスは吹っ切れたように笑顔を取り戻し、馬にもたれて二人を見やった。
「それじゃまあ、三人旅といきますか」
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