Chapter 4. Ghost (ゴースト) 5
目覚めると、ルースの顔が視界に飛び込んできた。
「兄さん、良かった!」
心底嬉しそうに笑う妹を見て、オーウェンは口元を綻ばせた。
「もう、びっくりしたわよ。いきなり倒れたなんて。大丈夫なの?」
「ああ。心配かけたな」
身を起こして周りを見回す。ルース以外は、誰もいないようだった。
「フェリックスが担いできてくれたのよ。重い重い、って悲鳴あげてたわ」
くすくす、ルースが笑う。
微かな嫉妬がくすぶったが、前ほどどろどろとした感情ではなかった。
(ああ、良かった)
「兄さん?」
ルースが怪訝そうにオーウェンを見た。
「――何でもない」
そう、何でもない。何でもなかった。
自分に言い聞かせるようにして、オーウェンは頷く。
自分は悪魔になど、憑かれなかった――。
忘れて良いと言われた言葉に、すがってしまいたくなった。
部屋を出て居間に行くと、ジョナサンとフェリックスがチェスをして遊んでいるところだった。
「あ、お兄ちゃん。目が覚めたんだ」
ジョナサンは立ち上がり、確かめるようにしてオーウェンに近づいてきた。
「ああ……」
オーウェンがちらりとフェリックスを見ると、フェリックスはいつも通りの食えない笑顔を浮かべた。
「やあやあ、兄さん。元気になった?」
「ああ」
何か言われるかと思って身構えたものの、フェリックスもジョナサンも特に何も言ってはこなかった。
「チェスなんて、この家にあったのか」
オーウェンは何気ない話題を選んだ。ジョナサンは特にいぶかしみもせず、答えてくれた。
「物置みたいなとこ探検したら、チェス盤があったんだ。それでフェリックスに教えてもらってるの」
「そうそう、そういうこと」
二人は嬉しそうに笑い合っていた。
「――用心棒」
オーウェンに呼ばれ、フェリックスは顔を上げる。
「ん? 何、兄さん」
「……面倒をかけたな」
それだけ言い残し、オーウェンは背を向けた。
何だそりゃ、というジョナサンの不満そうな声が聞こえ、次にフェリックスがなだめる声が耳を掠めた。
「兄さんは忘れたいんだ。俺は別に良いよ。悪魔に憑かれるなんて、愉快な思い出じゃない」
その言葉がフェリックスが悪魔祓いとして過ごした長き年月を物語っているような気がして、オーウェンは首を振った。
ふと人の気配がして顔を向けると、エレンが立っていた。
「オーウェン、元気になったかい。何事かと思ったよ。いきなり牧師さんが来るし……」
エレンの黒い目が、自分をじっと見つめる。フェリックスもそうだが、母もこのような目をすることがよくある。
まるで、人に見えないものが見えるかのように。
「なあ、母さん。本当に、ヘイリーさんを見たのか」
直球の質問にエレンは戸惑った表情になったが――すぐに、笑ってみせた。
「そうだね。はっきりとくっきりと。何年ぶりに、あの子を見ただろう」
エレンは暗い影を見せない微笑みを浮かべていたが、その心中は一体どうなっているのだろう。
母が弱音を零したところを、見たことがなかった。
ヘイリーの急死によって歌い手がいなくなった一座を、立て直したのはエレンだったと聞いている。ヘイリーの清涼な歌声とはまた違った、低く甘い声でエレンは歌姫になったのだった。
オーウェンは、実の父のことを知らない。「ろくでなしさ」と吐き捨てるエレンの言う通り、ろくな男ではなかったのかもしれない。
ヘイリーが亡くなって数年経って、エレンがアーネストと結婚すると聞いたときは非常に驚いたものだ。
抵抗も、覚えた。幼い少年特有の、母を守りたいという想いを踏みにじられたと思ったからだ。もちろん座長アーネストのことはよく知っていた。自分にもよくしてくれた。だからこそ。
拗ねて母の呼び声にも応じず馬車の影に隠れていると、よちよち歩く少女が近づいてきた。
『オーウェン』
『ルース。なあ、どう思う? 俺たち、兄妹になるんだって」
信じられなかった。同じ一座で兄妹のように育ったとはいえ、本当に兄妹になるとは思ってもみなかった。なのに、ルースは言ってのけたのだ。
『いーじゃない。ルースうれしい』
『嬉しい? 俺と兄妹になって、嬉しいのか?』
『そうよ。ルース、オーウェンとかぞくになれてうれしい。オーウェンは、うれしくないの?』
純粋な、子供らしい言葉。それが温かく響いたのを、今も覚えている。
ルースは受け入れてくれるのだと……心から嬉しくなった。子供は正直だ。オーウェンのように家族の誰かが取られてしまうと思って拗ねてしまうように、よそ者が入ることに抵抗を感じる子供も多い。
だけれども、ルースは違うのだ。
『――嬉しい』
この優しい少女がいるなら、他人とだって家族になれるだろうと確信した。
「オーウェン、どうしたんだい」
ハッと我に返ったオーウェンは、エレンが心配そうに顔を覗き込んでいたので、苦笑した。
「すまない、母さん。何でもない」
「そうかい? なんだか、呆けたような顔をしていたけど。まあ、元気なら良かったよ」
エレンが踵を返したところで、オーウェンはふと彼女を呼び止めた。
「なあ、母さん。どうして占いを止めたんだ?」
オーウェンがフェリックスに母が占いを止めた理由を話さなかったのは、秘密にしたかったわけではない。ただ単純に、オーウェンも知らなかったからなのだ。
「当てちまったのさ」
ぽつり、エレンが呟きを落とす。窓から吹いた夜風にその黒髪を弄ばせながら、エレンは泣き笑いのような表情を浮かべた。
「ヘイリーが死ぬことを、占いで当てちまった。そして、その通りになった」
知らず、息を呑んでいた。それならば、エレンが悔恨によって悪魔にヘイリーの姿を取らせたのも、頷ける――。
「嫌なことを思い出させて、すまない」
「あんたが謝ることじゃないだろう」
オーウェンは返事をしなかった。だが胸には、深い悔恨が渦巻いていた。
(俺の嫉妬が、悪魔を惹きつけたんだ……)
オーウェンはエレンが行ってしまった後、居間へと戻った。フェリックスとジョナサンは、まだチェスで遊んでいた。
居間を通り抜け、洗面所へと向かう。鏡に自分を映した途端、後ろから声がかかった。
「兄さん」
「――何の用だ、用心棒」
「最後に、何によって兄さんが悪魔に取り憑かれたかだけ教えておくよ。この、鏡だ」
オーウェンは顔を強張らせ、鏡を凝視した。
「ここに悪魔が住んでいたんだ。めぼしい奴が映ったら、取り憑いてたって寸法さ」
「――そうか」
「あと、お願いがあるんだ。俺が悪魔祓いってこと、ルースには言わないでくれ」
「ルースに? なぜだ」
「理由は言えないけど……。兄さんは、俺に借りができたろ? それとチャラってことで。頼むよ」
なぜ、ルースに言ってはならないのだろう。いぶかしみながらも、オーウェンは「わかった」と答えた。
「よろしく。それじゃ」
それだけ言い残し、フェリックスは行ってしまった。
助けてもらったのに無愛想なオーウェンに怒りもしないフェリックスを見ていると、自分が恥ずかしくなってくる。一言礼だけでも言っておかないと後味の悪いことになりそうだ。
意を決して居間に戻ると、ジョナサンがきょとんとして見上げてきた。
「お兄ちゃん、怖い顔してどうしたの?」
「用心棒は、どこに行ったんだ?」
「外に出てったよ」
ジョナサンに教えられ、オーウェンは一旦外に出たが、フェリックスの姿は見当たらなかった。
「おーい、兄さん。ここ、ここ」
声がした方に顔を向けると、何と屋根の上にフェリックスが座っていた。
「お前、何てところに! 危ないだろうが!」
「あっれー。兄さんてば、俺のこと心配してくれてるのかな。嬉しいな」
「黙れ!」
いつものように調子を狂わされ、礼を言う気が完璧に失せてしまった。
「それで良いんだよ、兄さん。あんたなりの礼ならさっき聞いた」
心を読んだような台詞にオーウェンはぎくりとしたが、フェリックスは底の知れない笑みを浮かべるばかりだった。
「お前は一体、何者なんだ?」
あまりの不可思議さにまた、問いを放ってしまう。
「兄さんが、夢の中で聞いた通りの存在だよ」
悪魔祓い――そんな職業がこれほど似合いそうもない男もいないのに、オーウェンは不思議と納得してしまう。
それはきっと、彼が何もかも見透かしてしまいそうな青い目を持っているからなのだろう。
To be Continued...
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