第3話  もう一度生きると誓った

 まるで墨汁で、人形に形どったかのようだ。部屋のカーテンを閉めて振り返った先に、佇んでいた存在は、性別すら判断できないほどの黒さだ。

 顔面を蒼白させて、硬直する祐輝は、漆黒の人形と至近距離で対峙している。その時だ。

 黒く悍ましい存在の、目元が開いた。瞳に生気はなく、不気味に開いている瞳孔が、祐輝を見つめている。


「こ、怖すぎる......う、動けないよ......」


 あまりの恐怖に祐輝は、動けずにいる。

 邪悪な怨霊は、お構いなしに怯える祐輝へと迫ってきた。一歩、また一歩と迫る怨霊は、黒い手を伸ばしながら、闇の世界にでも連れて行こうとしているのか。

 たまらず、目を瞑る。しかし魔の手が、体に触れる感触はなかった。恐る恐る、目を開いてみると、怨霊の黒い体が二つに裂けているではないか。


「大丈夫ですか? 祐輝殿」

「た、竹子さん!? それは?」

「これは私の刀ですが?」


 そこには、日本刀を手にした竹子が立っている。

 彼女は、女武者というわけだ。やがて髪の毛を一つ結びに束ねると、刀を両手で握りしめた。

 緊迫した異様な空気が、しばらく続いた。竹子は、周囲に新たな怨霊の存在がいないか、警戒していると、再び怨霊が姿を現した。部屋の壁をすり抜けるように、出てきた怨霊は竹子を見もせずに、祐輝へ一直線に向かった。


「刀を持っている私を気にもせずに!?」

「た、竹子さん!」

「お任せを!」


 背中から一刀両断した。竹子は、祐輝の手を引いて部屋から飛び出すと、走り始めた。どういうわけか、怨霊は祐輝のみを狙っている。そうとわかれば、とにかく逃げる他ない。

 走り続けた二人は、人気のない公園へと辿り着いた。荒い呼吸を整えて、一休みする祐輝は、竹子にこの異常事態の原因を尋ねた。


「本来、怨霊とは、こちらから刺激しないかぎりは何もして来ないのです。 それがどうしたことか......祐輝殿を狙っていますね」

「よお竹子、祐輝。 もしかして、お前の霊感が強いから、刺激されていると思っているんじゃねえのか?」


 そう虎白が、言葉を発すると、竹子と祐輝は顔を見合わせている。

 確かに祐輝は、息子の死を境に霊感が覚醒した。だが、それだけの理由で襲ってくるだろうか。では世界中の霊感のある者が、殺されてもおかしくない。

 祐輝は心の中で、そう呟いた。


「でもおかしいよ虎白......刀を持っている私を気にもせずに、襲うなんて」

「確かにな......まあいずれにせよ、祐輝はこの町から離れて、どこか遠い田舎へ行くべきだな」


 怨霊が、多数見られるのは、人気の多い町だ。それだけ人々の念が、渦巻いているのだろう。

 虎白からの提案に、静かにうなずいた祐輝は、携帯で長距離バスの予約を取り始めた。もはや、家族に呑気に別れを言っている時間すらない。

 公園のベンチで、大きな体を丸めて携帯を触っている。そんな時だ。

 怨霊が現れた。それも、以前よりも数を増しているではないか。竹子が、さやから刀を抜くと、迫る怨霊を見事な太刀さばきで、斬り捨てた。


「どうやら一刻の猶予もないようですよ祐輝殿」

「わ、わかってるよ! 今チケット買うから......」

「おい祐輝! そんなもんは、走りながらやれ! 怨霊の数が、随分と増えてやがるぞ!」


 虎白からの言葉を聞き、足早に走り始めた。目指す先は、バスターミナル。既に連日の怪現象で、疲弊している体にむち打って、懸命に足を動かしている。

 その間も、一切の感情を見せず、吸い寄せられるように迫り続ける怨霊を竹子が斬り続けた。



 走り続けること十分後。

 呼吸困難になりかけながら、やっとの思いでバスターミナルへ辿り着いた。だが恐怖に怯える祐輝は、休むことなく、乗車手続きを始めた。


「早くするんだ祐輝」

「もう終わるから......俺はこれからどうなるのかな......」

「怨霊が追いかけてくる原因がわからねえ以上は、身を隠すしかねえな。 それにしてもあいつら、何が目的なんだろうな」


 原因不明な事態が、頻発している。長年、霊界を見てきた虎白と竹子ですら、理解できない。やむなく、人里離れた場所へ逃げるほかないのだ。

 やがてチケットを手に入れた祐輝は、バスに乗車する時を待っている。竹子は、刀を鞘に収めることなく、周囲を警戒している。


「今のところは、怨霊はいませんね」

「竹子さんありがとうね......」

「いえ、守護霊ですから、これは義務ですよ」

「そうだ、聞いてなかったけど、どうして俺なんかの守護霊になってくれたの?」


 それはですね。と、話しを始めようとした時だ。

 先ほどよりも、さらに数を増やした怨霊の群れが、迫ってきているではないか。竹子は、会話を止めて直ぐに刀で、斬り捨てた。だが、あまりに数が多かった。

 気がつけば、バスターミナルを埋め尽くすほどの、怨霊が迫ってきている。

 恐怖の限界に達した祐輝は、悲鳴を上げて、その場にしゃがみこんだ。その光景を、霊界ではなくこの世の人間達は、不思議そうに見ている。


「あ、あのお。 大丈夫ですか?」

「く、来るな! 助けて竹子さん!」

「え? た、竹子さん?」

「この人クスリでもやっているんじゃない? 警察呼んだ方がよくない?」


 祐輝の異常なまでの、錯乱っぷりに、人々は困惑している。この世では、警察を呼ぶか、救急車かと話し合う者や、自分の動画の再生数稼ぎのために、目をギラつかせて撮影する者がいる。

 その頃、霊界では、竹子による孤軍奮闘が続いていたが、多勢に無勢となっていた。


「くっ......さ、さすがにこの数は......」

「竹子、祐輝を連れて、一度離れるぞ!」

「助けて竹子さん! 一生懸命生きるから! 息子の分まで、俺は生きるから! 死にたいなんて考えて、悪かったよ!」


 人生の全てを失った。息子との未来も、妻との幸せも。文字通りのどん底へと落ちたが、それでも祐輝は虎白や竹子と共に生きようと決めていた。

 生きていたくても、生きることのできなかった息子のために。

 竹子は、そんなどん底で足掻いている祐輝をこの謎めいた死地から脱出させようと、最後の力を振り絞った。

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