第2話 黒い異形の者

 あれからどれほどの時間を、走り続けたのか。呼吸は、既に切れているのに、足は止まることがなかった。

 気がつけば、実家の近くである都心部まで走り続けていた。周囲を見渡して、やっと呼吸を整えた祐輝は、あの瞬間の衝撃と畏怖いふを思い出して、震えている。

 異形の黒煙が、形となり、人形になって妻の背後で不気味に佇んでいた。そして妻はケタケタと笑い始めたのだ。まるで眠っていた別人格が、目を覚ましたかのように。



 久しく帰っていなかった故郷の町を、徘徊するように歩き続けて、夕暮れには実家へと帰った。

 家族は、青ざめた祐輝の異変に気がつくと、心配した様子だったが、祐輝はあの当時の出来事を家族には語ろうとしなかった。どうせ信じるはずもない。息子の死で、気が狂ったと思われるだけだ。

 そう頭の中で、話している。


「どうだろうな。 お前が見たものは、紛れもない事実だぞ祐輝」


 祐輝は、薄暗い部屋の中で、座り込んでいる。家族は、別の部屋でヒソヒソと、彼の今後を心配する会話をしているのが、聞こえている。

 しかし確かに、声が聞こえた。自分ではない、何者かの声が語りかけている。

 霊感の強い祐輝は、幼少期から、奇妙な体験を頻繁にしていた。父親の友人が交通事故で、亡くなった時も風呂場で亡くなったはずの友人と会話していたこともあった。

 だが、それは両親から、聞かされた話しであって、祐輝は当時の記憶はない。しかし今、まさに聞こえている声は、人生で始めての経験。


「まあ困惑するのもわかる。 俺だって困惑しているんだぜ?」

「俺は......いよいよ狂ったのかな。 嫁の背中にも、変なの見えたし......」

「現実逃避をしたくなるも理解できる。 だが、残念ながら全て真実だぞ」


 まるで、何か諭すように話している声は、祐輝が見た黒い異形のものも見ていた。淡々と、話す声に困惑した祐輝は、耳を塞いで布団を被った。

 それでも声は、平然と語りかけてくる。遂に、限界を迎えた祐輝は、自身の頭を激しく殴り始めた。


「止めろよ。 痛いだろ?」

「あんた誰なんだ!」

「そっか俺は、お前を良く知っていたが、知るわけないよな。 俺の名は、鞍馬虎白くらまこはく。 どういうわけか、長年お前の中にいるんだ」


 遂に気が狂ったんだ。祐輝は、聞こえている声の内容を聞き、そう落胆した。しかし虎白は、話しを止めることなく、現在置かれている状況を話し始めた。

 耳を塞いでも、布団を被っても、聞こえてくる虎白の声に諦めたように、話しを聞き始めた。


「お前の嫁さんからは、邪悪な気配を感じていた。 それが、俺と同じように、目覚めたのかも知れねえな」

「なんで、今なんだ......」

「さあ、それは俺にもわからねえ。 実は、俺も祐輝の中にいる経緯も過去のことも覚えていないんだ」


 それを聞くと、さらに落胆した。語りかけてくるが、結局の所は、何もわからないというわけだ。なんて頼りにならない声なんだ。祐輝は、そう考えて、眉間にしわを寄せている。

 妻の身に起きたことも、我が子の死から始まった怪異も、何が原因なのかわからないまま、祐輝は布団に横たわった。その時だ。


「うわっ!?」

「驚かせてしまいましたか?」

「誰!? え?」

「あなたの守護霊ですよ。 名は竹子と申します」


 倒れ込んで、天井を見つめようとしたが、そこには、着物を着た黒髪の綺麗な女が、覗き込んでいた。

 たまらず、飛び起きた祐輝は、部屋の隅で小さくなっている。竹子と名乗った守護霊は、心配そうに近づいてくる。


「よお祐輝、心配するな。 竹子はお前の味方だ」

「守護霊って幽霊!?」

「ああ、お前は昔から、霊感があっただろ?」


 その時、祐輝は、自分が生きてきた人生を思い返していた。ふと、窓に女のような存在が、写ったように見えた経験を何度もしていた。不思議とその経験は、精神的に追い込まれている時や、深い悲しみに直面した時に多かった。

 そして今、眼の前にいる着物姿の美女が、自分の守護霊だったと知った。大きく息を吸い込んで、小さく吐くと、竹子の綺麗な顔を見つめた。


「じゃあ守護霊なら、俺に何があったのかも知っているんだよね?」

「ええ......恐らく、あなたの奥方に憑いていたのは、怨霊かと......」


 かつて、深い悲しみや怒りを残したまま、生涯を終えたものが、怨霊になるという。妻の背後で、不気味に佇んでいた存在が、怨霊だったと話した竹子は、深刻な表情のまま、話しを続けようとしなかった。

 しばらくの沈黙の後、虎白が竹子へ語りかけた。


「なあ竹子、祐輝の息子は、何者かに襲われたのか?」

「いや......祐輝殿と行動していたから、私もわからないよ......」


 守護霊であるかぎり、守るべき存在である祐輝から離れることはないというわけだ。現に息子や妻に、異常なことが起きているが、祐輝だけは何者にも襲われていない。

 今日まで、無事だったのは、竹子の守護があってのことだったと知った祐輝は、小さく会釈すると再び布団に横たわった。


「俺はこれからどうすればいいのかな......」

「しばらく、心身を休めては? ねえ虎白?」

「ああ、お前は少し休んで、再び前を向け。 これからは、俺達がいるぞ」

「っていうか。 二人は、前から知り合いだったのね」


 虎白と竹子は、祐輝が産まれた時からの付き合いだ。しかし、竹子も虎白の姿を見たことがなかった。どういうわけか、祐輝の体に封印されている虎白は、記憶まで消えている。

 この先をどのように生きていけばいいのか。祐輝は、一瞬にして息子も妻も失ったことから、生への執着が薄れていた。果たして、生きていくことに意味があるのか。


「子が親より、先に死ぬなんて耐えられないよな。 気の毒にな祐輝」

「ありがとう虎白さん......竹子さんも、これからもよろしくね」

「ええ、励みます」


 生きる他ない。祐輝は、そう考えて薄暗い部屋のカーテンを開けて、窓を開いた。その時だ。

 向かい側の建物の窓に、佇む黒い人影があった。慌てて、カーテンを閉めた祐輝が振り返ると、部屋の中にも黒い人影が佇んでいた。

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