桜の瞬き

おうぎまちこ(あきたこまち)

桜の瞬き




 放課後、いつものように桃香ももかが屋上に向かう。建物の扉を開けて裏手に行くと、目当ての人物が寝転がっているのを見付けた。

 彼は、白シャツの上に白衣を羽織っていて、その中で赤いネクタイだけが派手で目立っている。


 桃香が、その人物に気づかれないようにゆっくり歩いていると、少しだけ強い風が吹いた。彼女の腰まである長い髪とセーラー服のスカートがたなびく。


 彼の頭元まで近付き、彼女は腰を落とした。そして、寝ている人物に向かって声をかける。


結人ゆいと先生、またこんなところでさぼってるんですか?」


 グラウンドからは野球部の声と、吹奏楽部の楽器の音が聴こえてくる。

 屋上は、まだ制服だけだと肌寒い。


「ああ、町田桃香まちだももかか……」


 桃香が結人先生と呼んだ人物は、気だるげに、桃香の顔を見上げた。

 少しだけ年上の彼は、化学の担当で、桃香の副担任の雨条結人あまじょうゆいと先生だ。去年の四月に新任として、彼女の高校にやって来た。

 若い男性、しかも端正な顔立ちをした彼は、学校の女子達皆の間で、瞬く間に人気になった。生徒皆に対して礼儀正しく、品行方正。一見すると、非の打ち所がないかに見える彼だったが――。

 

「結人先生、今日の最後のホームルーム、どうして来なかったんですか? あ、また煙草の匂いがします……」


「だって、怠いんだよな……正直ああいうのさ」


 ――本当の結人先生は、もっとがさつで適当な大人だった。


 彼は身体を起こし、桃香に向き直った。

 

「先生、そればっかりじゃないですか。女子が寂しがってましたよ」


 頬を膨らませながら桃香がそう言う。ただでさえ童顔、可愛らしいと言われがちの彼女がますます幼さを増す。

 彼女を見ながら、結人は苦笑した。



「悪い、悪い。でも、俺、お前以外の生徒達には、そんなに興味ないからさ」


 彼の中低音の声でそう言われ、桃香の心臓が一度だけ高鳴る。


「もう、すぐそうやって、からかうんですから!」


 彼はいつも、彼女に冗談ばかり言う。

 結人が、桃香を見て、声を出して笑った。


 他の生徒が知らない、結人先生の本当の姿を知っているのは、自分だけ。


 桃香は、ふと、どうしてこんなに結人先生と親しくなったのかを思い出した。




※※※



 

 あれは、去年の夏頃だったか。

 今のような放課後、模試の成績が振るわず、桃香は一人になりたくなった。たまたま屋上に向かった彼女は、煙草を吸っている結人と遭遇した。

 真面目な印象が強かったの意外な素顔に、彼女は大層驚いた。

 彼は煙草の火を地面で消しながら、驚いて涙が引いてしまった彼女に話しかけた。


「お前にしては、今日返ってきた模試の結果、悪かったな」


 そう言われて、彼女の胸の内が重たくなる。

 また瞳が潤んできた。


 すると――。


 桃香の頭に、結人先生が手を置いた。


「まあ、たまには良いんじゃないか? いつでも何でも出来るばっかりじゃ、人生つまんないぞ」


 そう言って、彼に頭を撫でられた。

 桃香の心臓が、一度だけ大きく跳ねる。 

 

「なあ町田、お前が泣いてたの内緒にしといてやるからさ。俺のことも黙っててくれるか?」


 特に彼を貶めたいなどと思っていなかった桃香は、その願いを黙って聞き入れた。


「先生はいつも、屋上にいらっしゃるんですか?」


「ああ、大体ここで時間つぶしてるが」


 結人先生の答えに、桃香はさらに問いかけた。


「だったら、また遊びに来ても良いですか? 先生の秘密を内緒にする代わりに……」


「は? まあ、別に良いけど……」



 それ以来、二人は秘密を共有する仲になった。


 部活を引退し、受験勉強を残すのみだった桃香。

 彼女は放課後になると、屋上にいる結人先生に会いに行くのが習慣になったのだった。




※※※




 また風が吹いた。

 桃香は自身の髪を抑えながら、結人に声をかけた。


「明日は、卒業式……。先生とも、もう、お別れですね」


 想像以上に、低いトーンの声が出てしまった。

 知らぬ内に目頭が熱くなってくる。


 もう、彼に会えない。


 言葉にすると、その現実が一気に差し迫ってきた気がした。


 心臓がぎゅっと苦しくなる。



「へぇ、お前、俺とお別れする気だったの?」



「え? だって仕方ないじゃないですか。卒業したら、もう会え――」


 それ以上、桃香が言葉を口にすることは出来なくなった。

 彼女の身体は後ろへとくずおれる。桃香の長い髪が揺れた。結人の身体が、彼女の身体に覆い被さるようにして重なる。


 空が見えた。


 いつの間にか、桃香の唇は、彼の唇に塞がれている。


 思いがけない出来事に、頭の中が真っ白になる。何が起きたのかが分からない。


 彼からキスされているのだと、理解するのに時間がかかった。


 はじめは、触れ合うだけだった。

 だけど結人の舌で、桃香の唇がむりやり開かれる。

 次第に、彼が彼女の中に入ってくる。

 深くなるにつれ、呼吸がしづらくなっていく。


 柔らかなもの同士が絡み合った。


 煙草の苦味が、口の中に拡がる。


 初めてで――。


 桃香は何も考えられなくなる。


 息を継ぐ、タイミングが、分からない。


 ――本当は短い時間だったのかもしれないが、桃香にはとても長い時間に感じた。



「雨条先生~~? どちらにいらっしゃいますか~~?」


 突然、二人の耳に呼び声が届く。

 屋上に向かう扉が開き、女子生徒数名の声が聴こえた。


(見られると、まずい)


 口付けられたまま、我に返った桃香は、結人の元から離れようとした。だが、彼に身体を抑えられて、身動きがとれない。

 一度だけ唇が離れた時に、彼女は結人に向かって訴える。


「先生……人が、来ちゃ――」


 ぞわりとした感覚が、身体中に走った。

 桃香の首筋を、白い肌を、結人の唇が這う。


 彼が赤いネクタイを緩める姿が、視界に入った。


「集中しろよ」


 抵抗したいのに、できない。

 声が出そうになるのを、桃香は我慢する。誰かに聴かれるのはまずい。



「先生いないんですか~~?」



 女子生徒が、二人の元に近付いてくる気配を感じる。

 なのに先生は、辞めてくれない。

 彼は長い指で、桃香の鎖骨をなぞった後、彼女のセーラー服のリボンをほどいた。

 そうしてまた、口付けられる。


 初めて味わう快楽と、バレたらどうなるのだろうという恐怖が同時に襲う。


 心臓の音が鳴り止まない。



(もう、ダメ……見つかっちゃう……)



 桃香は結人に抗えず、口中を玩ばれたままだ。


 思わずぎゅっと、目を瞑った。

 


「屋上、先生いないみたいだよ~~。もういこう!」


 女子生徒達が、そう口々にし、足音は遠ざかっていった。

 そうして、扉が閉まる音がする。


 そこでやっと、桃香は結人から解放された。


 桃香の息は、上がっていた。

 頬が紅潮しているのが、自分でも分かる。

 全身がぐったりとして、力が入りづらくなっていた。


 なのに、見上げた結人の表情は、いつもと変わらず余裕があって、桃香は釈然としなかった。 


「……先生」


「お前が、もう卒業だって言ったんだろ」


「……卒業式は、明日……ですよ」


 なんとか呼吸を整えながら、桃香は結人に抗議する。


「俺は品行方正で通ってて、お前も優等生。誰も俺達の関係に気付かないよ」


 彼は、彼女の身体からゆっくりと離れた。

 結人は地面座り直し、白衣の内側のポケットにしまっていた海外産の煙草とライターを手に取った。そこから一本手に取り、火をつける。


「あ、悪い。お前の前では吸わないようにしてたのに……」


「……大丈夫、です」


 桃香も、時間をかけながら、自身の身体を起こした。 

 結人が煙草を吸う姿を、彼女はぼんやりしながら見る。つい、彼の唇に目が奪われてしまった。

 その視線に気付いたのか、結人は桃香に声をかける。


「なあ、お前、俺のこと好きだろ?」


「え――?」


 桃香は目を丸くしてしまう。

 ばれていたのかと思うと恥ずかしくなり、俯いてしまった。

 彼女がもじもじしていると、結人がさらに言葉を継いだ。


「俺もさ、気になる女に、そう言う目で見られてるの分かってて、我慢するのは大変だったんだ」


 そう言われ、桃香は顔を上げる。


(今、結人先生、気になる女って――) 


 彼と目が合う。


「お前のこと、大事にするよ。卒業してからも、ずっと」


 結人から告げられた言葉に、桃香は黙って頷いた。


 彼は少し笑んだ後、いつものように煙草の火を地面で消す。


 そして彼がまた、そっと彼女に口付けた。


 先程までとは違い、ついばむようなキス。

 

 だけどその口付けからは、煙草の香りと、これから先を予感させる大人の味がした。


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桜の瞬き おうぎまちこ(あきたこまち) @ougimachiko

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