桜の瞬き
おうぎまちこ(あきたこまち)
桜の瞬き
放課後、いつものように
彼は、白シャツの上に白衣を羽織っていて、その中で赤いネクタイだけが派手で目立っている。
桃香が、その人物に気づかれないようにゆっくり歩いていると、少しだけ強い風が吹いた。彼女の腰まである長い髪とセーラー服のスカートがたなびく。
彼の頭元まで近付き、彼女は腰を落とした。そして、寝ている人物に向かって声をかける。
「
グラウンドからは野球部の声と、吹奏楽部の楽器の音が聴こえてくる。
屋上は、まだ制服だけだと肌寒い。
「ああ、
桃香が結人先生と呼んだ人物は、気だるげに、桃香の顔を見上げた。
少しだけ年上の彼は、化学の担当で、桃香の副担任の
若い男性、しかも端正な顔立ちをした彼は、学校の女子達皆の間で、瞬く間に人気になった。生徒皆に対して礼儀正しく、品行方正。一見すると、非の打ち所がないかに見える彼だったが――。
「結人先生、今日の最後のホームルーム、どうして来なかったんですか? あ、また煙草の匂いがします……」
「だって、怠いんだよな……正直ああいうのさ」
――本当の結人先生は、もっとがさつで適当な大人だった。
彼は身体を起こし、桃香に向き直った。
「先生、そればっかりじゃないですか。女子が寂しがってましたよ」
頬を膨らませながら桃香がそう言う。ただでさえ童顔、可愛らしいと言われがちの彼女がますます幼さを増す。
彼女を見ながら、結人は苦笑した。
「悪い、悪い。でも、俺、お前以外の生徒達には、そんなに興味ないからさ」
彼の中低音の声でそう言われ、桃香の心臓が一度だけ高鳴る。
「もう、すぐそうやって、からかうんですから!」
彼はいつも、彼女に冗談ばかり言う。
結人が、桃香を見て、声を出して笑った。
他の生徒が知らない、結人先生の本当の姿を知っているのは、自分だけ。
桃香は、ふと、どうしてこんなに結人先生と親しくなったのかを思い出した。
※※※
あれは、去年の夏頃だったか。
今のような放課後、模試の成績が振るわず、桃香は一人になりたくなった。たまたま屋上に向かった彼女は、煙草を吸っている結人と遭遇した。
真面目な印象が強かった
彼は煙草の火を地面で消しながら、驚いて涙が引いてしまった彼女に話しかけた。
「お前にしては、今日返ってきた模試の結果、悪かったな」
そう言われて、彼女の胸の内が重たくなる。
また瞳が潤んできた。
すると――。
桃香の頭に、結人先生が手を置いた。
「まあ、たまには良いんじゃないか? いつでも何でも出来るばっかりじゃ、人生つまんないぞ」
そう言って、彼に頭を撫でられた。
桃香の心臓が、一度だけ大きく跳ねる。
「なあ町田、お前が泣いてたの内緒にしといてやるからさ。俺のことも黙っててくれるか?」
特に彼を貶めたいなどと思っていなかった桃香は、その願いを黙って聞き入れた。
「先生はいつも、屋上にいらっしゃるんですか?」
「ああ、大体ここで時間つぶしてるが」
結人先生の答えに、桃香はさらに問いかけた。
「だったら、また遊びに来ても良いですか? 先生の秘密を内緒にする代わりに……」
「は? まあ、別に良いけど……」
それ以来、二人は秘密を共有する仲になった。
部活を引退し、受験勉強を残すのみだった桃香。
彼女は放課後になると、屋上にいる結人先生に会いに行くのが習慣になったのだった。
※※※
また風が吹いた。
桃香は自身の髪を抑えながら、結人に声をかけた。
「明日は、卒業式……。先生とも、もう、お別れですね」
想像以上に、低いトーンの声が出てしまった。
知らぬ内に目頭が熱くなってくる。
もう、彼に会えない。
言葉にすると、その現実が一気に差し迫ってきた気がした。
心臓がぎゅっと苦しくなる。
「へぇ、お前、俺とお別れする気だったの?」
「え? だって仕方ないじゃないですか。卒業したら、もう会え――」
それ以上、桃香が言葉を口にすることは出来なくなった。
彼女の身体は後ろへとくずおれる。桃香の長い髪が揺れた。結人の身体が、彼女の身体に覆い被さるようにして重なる。
空が見えた。
いつの間にか、桃香の唇は、彼の唇に塞がれている。
思いがけない出来事に、頭の中が真っ白になる。何が起きたのかが分からない。
彼からキスされているのだと、理解するのに時間がかかった。
はじめは、触れ合うだけだった。
だけど結人の舌で、桃香の唇がむりやり開かれる。
次第に、彼が彼女の中に入ってくる。
深くなるにつれ、呼吸がしづらくなっていく。
柔らかなもの同士が絡み合った。
煙草の苦味が、口の中に拡がる。
初めてで――。
桃香は何も考えられなくなる。
息を継ぐ、タイミングが、分からない。
――本当は短い時間だったのかもしれないが、桃香にはとても長い時間に感じた。
「雨条先生~~? どちらにいらっしゃいますか~~?」
突然、二人の耳に呼び声が届く。
屋上に向かう扉が開き、女子生徒数名の声が聴こえた。
(見られると、まずい)
口付けられたまま、我に返った桃香は、結人の元から離れようとした。だが、彼に身体を抑えられて、身動きがとれない。
一度だけ唇が離れた時に、彼女は結人に向かって訴える。
「先生……人が、来ちゃ――」
ぞわりとした感覚が、身体中に走った。
桃香の首筋を、白い肌を、結人の唇が這う。
彼が赤いネクタイを緩める姿が、視界に入った。
「集中しろよ」
抵抗したいのに、できない。
声が出そうになるのを、桃香は我慢する。誰かに聴かれるのはまずい。
「先生いないんですか~~?」
女子生徒が、二人の元に近付いてくる気配を感じる。
なのに先生は、辞めてくれない。
彼は長い指で、桃香の鎖骨をなぞった後、彼女のセーラー服のリボンをほどいた。
そうしてまた、口付けられる。
初めて味わう快楽と、バレたらどうなるのだろうという恐怖が同時に襲う。
心臓の音が鳴り止まない。
(もう、ダメ……見つかっちゃう……)
桃香は結人に抗えず、口中を玩ばれたままだ。
思わずぎゅっと、目を瞑った。
「屋上、先生いないみたいだよ~~。もういこう!」
女子生徒達が、そう口々にし、足音は遠ざかっていった。
そうして、扉が閉まる音がする。
そこでやっと、桃香は結人から解放された。
桃香の息は、上がっていた。
頬が紅潮しているのが、自分でも分かる。
全身がぐったりとして、力が入りづらくなっていた。
なのに、見上げた結人の表情は、いつもと変わらず余裕があって、桃香は釈然としなかった。
「……先生」
「お前が、もう卒業だって言ったんだろ」
「……卒業式は、明日……ですよ」
なんとか呼吸を整えながら、桃香は結人に抗議する。
「俺は品行方正で通ってて、お前も優等生。誰も俺達の関係に気付かないよ」
彼は、彼女の身体からゆっくりと離れた。
結人は地面座り直し、白衣の内側のポケットにしまっていた海外産の煙草とライターを手に取った。そこから一本手に取り、火をつける。
「あ、悪い。お前の前では吸わないようにしてたのに……」
「……大丈夫、です」
桃香も、時間をかけながら、自身の身体を起こした。
結人が煙草を吸う姿を、彼女はぼんやりしながら見る。つい、彼の唇に目が奪われてしまった。
その視線に気付いたのか、結人は桃香に声をかける。
「なあ、お前、俺のこと好きだろ?」
「え――?」
桃香は目を丸くしてしまう。
ばれていたのかと思うと恥ずかしくなり、俯いてしまった。
彼女がもじもじしていると、結人がさらに言葉を継いだ。
「俺もさ、気になる女に、そう言う目で見られてるの分かってて、我慢するのは大変だったんだ」
そう言われ、桃香は顔を上げる。
(今、結人先生、気になる女って――)
彼と目が合う。
「お前のこと、大事にするよ。卒業してからも、ずっと」
結人から告げられた言葉に、桃香は黙って頷いた。
彼は少し笑んだ後、いつものように煙草の火を地面で消す。
そして彼がまた、そっと彼女に口付けた。
先程までとは違い、ついばむようなキス。
だけどその口付けからは、煙草の香りと、これから先を予感させる大人の味がした。
桜の瞬き おうぎまちこ(あきたこまち) @ougimachiko
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