第138話 吸引性皮下出血

「ふーん、そうなんだ……」


 愛奈は俺の言葉を最後まで聞くと、顔を下げてもう一度俺の胸に潜った。


「ちょっと、ちょっとだけ。整理する時間を下さい」


 そして訪れた無言の時間。

 今では愛奈の顔はもう見えないため、俺には愛奈がどう思っているかを確かめるすべはなく、できることもない。

 これを聞いて愛奈がどう思うか、愛奈に判断を委ねた。

 

 内容が内容なだけに、消化にも時間がかかるだろう。

 俺は静かに、愛奈の艶やかでさらさらの髪を撫で続けた。


◆◇


「私、思っていた以上に賢太くんに愛されてたんだ……、そっかぁ、ふふっ」


 しばらくの時間を経て、愛奈は口を開いた。

 俺の耳に聞かせるというより、心臓に聞かせるように言ったその言葉は、残念ながら俺にはよく聞こえない。

 ただただ、もぞもぞとした愛奈の吐息が、服越しに胸に伝わってこそばゆかった。


「賢太くん、ごめんね」

「? いいよ?」

「……何に向けて言ってるか分かってないくせに、適当に許さないでよ」


 待ちに待った愛奈の一声目は、まさかの謝罪だった。

 意外な言葉が急に出てきて、思わず脊髄反射で返事をしてしまう。

 そのことに突っ込みを貰ってしまったが、声も言い方も丸くなっており、切れ味は鈍くなっていた。

 

 そうして俺の顔を見るために、愛奈はまた顔を上げる。

 目がまだ少し赤くて腫れているのが目立つが、随分と冷めた目で、俺を射抜く。


「今の謝罪は、賢太くんに暴力を振るったことにだよ」

「いいって、振るわれたとも思っていないし、むしろ深く受け止めた。妥当だった、残当だった」

「そっか、賢太くんがそう言うならもう忘れることにする」

「いいんだよ。今回の件で愛奈に非はないんだから」


 俺はもう疲れたとジェスチャーをして、この話はもう終わりだと愛奈に伝える。

 それを俺が言うのもおかしな話だが、そうでもしないと愛奈はいつまでも引きずるからな。


 そして二人の間に柔和な空気が流れ始めると、どちらともなく笑い始めた。

 俺はワハハと、愛奈はクスクスと。

 それはもう、今日という一日の辛さを清算できるほどに。


「なんで笑ってるの?」

「え?」

「私、謝っただけで、まだ許してないよ?」


 ここでま笑っていた愛奈が、思いっきりでかい釘を俺にさして、場を凍らせる。

 許された感があった空気は一分も経たずに霧散した。


「賢太くんが私のことを大事にしてくれていることや、有峰さんにもまだ負けていないことも分かった」

「なら――」

「ダメだよ、許さない」


 愛奈はそう言い切ると、体を前進させて顔を俺の顔の隣にまで運んだ。

 愛奈のつま先が俺のすねに当たって、彼女が小さい少女だということに意識が行き、体の密着感が彼女を女性へと昇華させる。


「女の子ってね、ナンバーワンより、オンリーワンになりたいんだって」

「いきなり何を……、っていうか耳元で囁かれるとくすぐったいって」

「そうやって考えると、女の子ってやっぱり狡猾だよね。オンリーワンになったら、必然的にナンバーワンになるんだから」

「いや、だから何の話」

「一見、捨てているように見えて清楚ぶるけど、本当は二兎得ているんだよ。ナンバーワンになることはオンリーワンになることの十分条件ってことを、魂で理解してる」


 愛奈の甘い声をしたウィスパーが、俺を魅了する。

 愛奈の言っていることはほとんど頭には言ってこなかったのは、その声で頭の中をがんがんと揺らしたからに他ならない。


「俺のために女心の講義でもしてくれてるのか?」

「講義なんてぬるい言葉じゃないよ~、分からせてるんだよ。その酷く色が入り交ざったきったない心に」

「……すいませんね、きったなくて」


 明るかった声色が、いきなり暗く低くなると、人間はここまで鳥肌が立つのか。

 背筋が凍るような怖い話は、内容よりも言い方の問題なのかもしれない。


「いいんだよ、私は賢太くんがどんなに汚く薄汚れたって好きだから。それに……」

「それに?」

「私色に染め上げればいいだけの話だから。賢太くんが他の女、いや、他の人間が目に入らないくらい骨抜きにして、さっき言ったように私が女だってことを分からせる」


 そうして愛奈は目を輝かせると、首の頸動脈より少し前ほど甘噛みする。

 ちくりとした痛みが走るものの、そこまで痛くない。

 また変なことし始めたと見逃そうとした瞬間、愛奈がかみついた箇所を強く吸引した。


「ちょっと! 何してるんだよ! 血でも吸おうとしてんのか!」

「…………」

「返事の代わりに吸引力上げるの止めて! ちょっと痛くなってきた!」


 それから数十秒間の痛みに耐えて、やっと吸うのを辞めた。

 その後、愛奈が酢った場所を確認して、優しく吸った部分をなぞった。


「いや、ごめんなさい賢太くん。ちょっと愛情が溢れて止まんなくって」

「突発的にそうなるなら君はもう、蚊です」

「あっ、そういえば、数日後になんか大事な用事があるんでしたっけ?」

「まぁ、四日後ぐらいにあるけど……。って、おい、また吸うなって!」

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