第136話 思い出の裏で

「なに『今日は愛奈が看病しに来てくれたのに、紗季のことをずっと考えてしまったから』って、ばかっ、ばかっ!」


 愛奈は俺の頬を抓ることを辞め、痛めつけた場所をぷにぷにともみほぐし始めた。

 急な罰ゲームの方向性の転向に、俺の体はギュッと縮こまる。


「今日だけじゃないよ……ずっとだよ、ずっと!」


 愛奈は尻上がりに音量を上げて、感情もどんどんと詰め込んでいく。

 こんなに感情を昂らせた愛奈は今までに見たことがない。

 今までの積もりに積もった怨念を、音として、声として、行動として発散させている。


「賢太くんは、私と付き合ってから、一度も私だけを見てくれないっ!」


 愛奈はついに涙腺を崩壊させ、目じりに溜まった宝石は着実に大きくなっていく。

 まだ表面張力で愛奈の目から零れていないが、これも時間の問題で、いずれは溢れてしまうだろう。


 ここで俺が『そんなことはない』と言って、愛奈を慰めることは簡単だ。

 しかし、そんな軽薄なこと、口が裂けても言えない。

 愛奈に言われて、いや、言われる前から心当たりがあり、これ以上嘘をついて愛奈を傷つけたくなかったからだ。


 付き合っている女性がいるのに、他の女性が心にいるのが、良くないことは分かっている。

 人によっては、それも一つの浮気だと思う人もいるだろうし、そう思われても仕方がないと思う。

 

 もちろん、俺だってしたくてそんなことをしていたわけではない。

 愛奈と遊びに行ったときに、紗季の名前を自分から積極的に出したことはないし、むしろ意図的に出さないようにしていたほどだ。

 どんなに朴念仁で経験の浅い俺でも、それくらいのことは弁えていた。


 それでも、人の感情や関係に機敏な愛奈には筒抜けだったらしい。

 申し訳ない以外の言葉が見つからない。否、思うべきでない。


「けど、分かってる。分かってるんだよ。きっと賢太くんには、心の中に有峰さんをずっと残さないといけないような体験が、有峰さんとあったんだよね」

「……言い訳はしたくないけど、そうだ」


 愛奈は、一方的に俺を糾弾できる今でも、俺の気持ちを慮って寄り添ってくれる。

 思えば、愛奈はやさぐれていた高校時代から、心根では優しく魅力的な少女だった。

 それは数年が経った大学生になっても同じで、変わることはない。


 ただ、今はそんな優しさが、一番心に突き刺さる。

 彼女が俺に気を使えば使うほど、自分の無遠慮さが浮き彫りになり、自己嫌悪が強くなる。


「だよね。正直に言って、そんなこと、賢太くんんと有峰さんの関係を始めてみた時から分かってたんだ」

「……」

「そして同時に、この関係には、なれないなって思った。私が、何十年かけて、賢太くんと一緒にいても、なれない。もはや、比喩にならないほど、文字通りに、次元が違うって思った」


 どんなに顔が悲痛で歪んでも、言葉が途切れ途切れになっても、愛奈は心境の暴露を辞めない。

 

 そしてついに溢れ零れた涙が、痛む俺の頬を優しく撫でた。

 その様子は、愛奈から見たら俺が泣いたように映っているだろう。


「でもね、敵わないとは、思ってなかったの」


 自分の涙が零れたことに気づいた愛奈は、無理やり表情筋を動かして笑みを作り、空いていた手で涙をぬぐった。

 しかし、それでも愛奈の雨は一向に止まない。

 それに、今の愛奈の笑顔は、俺が見た中で、一番悲しく、醜い。


「だって、それが彼女にとっての最大の長所であり、短所だったから」

「いいって……」

「でも、今の彼女は自分の力でそんな弱点を克服した。私が心の底から欲しかった立場を捨ててまで、変化と進歩を望んだ」

「もういいよ、愛奈……」

「私が嗾けたっていうか、催促したんだけど、すぐに反省した」


「敵に塩なんか送らない方が良かったって」


「あの時は、有峰さんと同じ条件で戦って、正真正銘勝って、私だけを見てもらいたいって思ってた」


「けど、今日分かっちゃったの。そんな対等な勝負なんて最初からなかったって」


「どんな関係になっても、賢太くんの中には有峰さんがいるって」


「ずるいよ……。そんなことなら、私なんて勝てないよ……」


「ずるい……、ずるいよ……」

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