第133話 若妻・愛奈ちゃん


「できましたよー」


 キッチンからの可愛らしい彼女の声が鼓膜を揺らし、俺はゆっくりと瞼を開けた。

 こうして布団で横になって目を開けるのは本日三回目だが、家に誰かがいると分かっているだけで、こうも心の持ちようというものは違うものなのか。

 朝の二回、というより一人暮らしを始めてから、朝起きてもどこか寂しいような愁いがあった。

 おはようの挨拶もできないし、朝ごはんだって自分で用意しないと出てこない。

 

 しかし、こうして魅力的な女の子の声で聴覚が、腹を鳴らせるような匂いで嗅覚が刺激されるとこんなにも寝起きは気持ちが良くなるのか。


 そう思いながら背を伸ばしながら体を起こすと、同じタイミングで愛奈がリビングに鍋を持ってきた。

 そんな何気ない日常の一コマに、俺は息を詰まらせた。

 なんだこの、ぬぐえないような新婚感。

 愛奈は料理するときはエプロンをするのだろうが、今来ているエプロンは俺が持っていたけど着なくなっていたエプロン。

 きっとどこかから引っ張り出したのだろうが、身長差から生じたそのずぼっとした感じ。

 彼シャツと同じ感覚でドキッとするし、その手にした鍋掴みが新妻感を醸し出す。


 そうして人生で何度目か分からない、愛奈に対する見惚れを経験すると、愛奈は俺の隣に腰を下ろした。


「賢太くんの体調を考えて、今日は雑炊にしてみましたっ」

「雑炊! ありがとう。でも、冷ご飯なんてなかったはずだけど?」

「炊いてました。賢太くんが体調悪そうなのを見て、予期してましたから。おかゆを作るなら炊かない方が良かったんでしょうけど、元気だった場合もおかゆになってしまうので炊いちゃいましたっ」

「本当に……、すごいな」


 愛奈の圧倒的な良妻賢母さに語彙力を失っていると、愛奈は俺の前で鍋の蓋を外した。

 水蒸気が一瞬、おかゆを白い霧で隠した後、一気に天井へと向かっていく。

 そうしてやっと姿を見せたおかゆは、半透明でつやつやとしたお米に加え、見る者に食欲を与えるように鮮やかな黄色をしたとき卵が入っているのが見える。


 まだ味を見てないので確信は持てないが、これは卵の雑炊というやつだろう。


 その見た目の美しさ、鼻孔をくすぐる匂い、俺の胃袋は早く食べたいと悲鳴を上げた。


 なんでこう、白米が立たせる蒸気というものは食欲をそそるんだろう。

 自分が根っからの日本人だと自覚していると、ふと気になることが目に入る。


「なんか、量多くない? 明らかに一人前じゃない気がするんだけど」

「まぁ、そうでしょうね。一人分じゃないですから」

「? それになんかスプーン一つしかないし」

「……」


 俺は美味しそうなおかゆを前に、ニコニコとした笑顔で愛奈に疑問を投げかける。

 このご飯の前ではどんなに下卑た悪感情が出ても、たるんだ顔しかできなくなる。


 そんな俺に対して、愛奈も同じような恵比須顔で応戦してくる。

 ただ、この人の笑顔の下は、卑劣な企みがある気がする。

 

 おかゆの取り出しの匂いをも超えて匂ってくる。

 こいつはくせえッー! 生まれついての悪だッ!


「愛奈さん?」

「風邪ってー、人に移すとー、治るらしい、ですよ?」

「……いや嘘だよ迷信だよ。俺が薬学部だから知識を持ってるとかそういうの以前に、義務教育を受けた人ならわかると思うんですけど、それデマです」

「いや、けど、やってみないと分からないしー」

「分かるわ! なんで自分から風邪をひこうとすんだよ!」

「だって、私が感染したら賢太くんはその責任感から今度は私に看病してくれるだろうし、そもそも賢太くんが育てたウイルスって実質賢太くんの一部だから感染しても全然嫌じゃないって言うか、逆に賢太くんに全身を嬲られてるみたいに感じて良きって言うか――」

「早口っ!」

「ええい! 病人は黙って餌付けされておけばいいんですよっ!」


 そう言って愛奈は、雑炊をスプーンを掬って俺の口に突き刺す。放り込むとか、差し出すじゃなくて突き刺す。

 そのあまりもの速さ、手際の良さに俺が反応できるわけもなく――。


「熱っ!」

「どうです?」

「熱くて味なんて分からな……美味いっ!」

「ほらっ!」

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