第129話 考え事
むわっとした空気に包まれた自宅前、カバンに手を突っ込んで、財布やティッシュの山から鍵を探す。
指先から伝わる鍵の硬さや形状、冷たさで鍵を見つけ出し、『これだ』と確信をもってカバンから取り出してみると、鍵は街灯に照らされて金色に輝いていた。
やっとのことで玄関に鍵をさし、ドアを開けると、外よりもむわっとした空気の奔流が俺を出迎えた。
「ただいま」
俺以外に誰もいないことは知っているのに、実家暮らしの習慣からか虚無に向かって報告する俺。
もちろん『ただいま』の返事はなく、返されたものはただの孤独感と木霊した俺の声。
「はぁ……」
まるで、その孤独感に対しての返事で出たような溜息に、自分でもびっくりする。
なぜ、自分が今、溜息をしたのかもわからない。
きっと、それほどに疲れたということだろう。今日は色々と有ったから。
とりあえず家に入るかと、靴を脱ぎ捨て、俺は洗面台へと足を向けた。
◆◇
給湯器をつけて、設定温度を四十二度に設定する。
そして服を脱いで浴室に入り、シャワーの栓をひねって水を出すと、ガスに温まる前の冷水が俺の頭を冷やしてくれた。
「なんだかなー」
シャワーがじわじわと温まっていくのを感じながら、今日のことに思いをはせる。
シャワーを浴びて一日を振り返るのが、俺のルーティンだった。
俺は今日、確実に大学生活、さしては人生の転機を迎えた。
中学からの親友であり、メディアに引っ張りだこのモデルであり、俺の初恋相手かもしれない人に告白されたのだ。
自分でも恵まれすぎて、夢なんじゃないかと未だに思っている。
しかし、そんなありえないような貴重な体験、壮絶な覚悟に俺は、正面から向き合うことができなかった。
紗季に甘えて、曖昧な返事をして、時間を稼いだ。
その場で返事をしなければと、脳では理解していた。体も動き始めていた。
ただ、紗季に告白されたときに、どうしても愛奈の顔がフラッシュバックして、それらを邪魔した。
紗季の返事として、イェスと答えるにしても、ノーと答えるにしても、脳内の愛奈がもっと考えるように釘を刺したのだった。
そうして、今、再度その答えは最適だったのかと答えの見直しをする。
俺は今、紗季をどう思っているのだろうか。
この夏までは、ずっ友ならぬ、超ずっ友だと思っていたし、そう他にも自信をもって他言できた。
それほどまでに俺たちは仲が良かったし、性別をも超えた関係だったともいえる。
ただ、そうだからこそ、紗季はそれが嫌になり、告白をしてきた。
もしかしたら、この告白を受け入れていたら、夏休み以前の関係性に戻れていたのかもしれない。
暇だったら一緒に遊びに行って、緊張感もなく過ごすだらだらとした日々が。
しかし、結局それでは恋人になった意味がない。
それは紗季も理解しているだろうし、紗季の覚悟を潰す結果になっていただろう。
……。
やはり、考えても考えてもその問いに答えは出ない。
今持っている俺の手札では、彼女が求めているのものは出せない。
そういう意味ではきっと、答えを保留したのは最善択だったのかもしれない。
「あっつい」
お湯が熱くなったのか、知恵熱が出たのか分からないが、頭が燃えそうだ。
シャワーの栓を赤色から青色の、水が出る方へと捻り、頭を再度冷やす。
いかに夏と言えど、いつもは寒く感じる水が、今となっては気持ちいい冷たさになっていた。
とりあえず、一回寝てしまおう。
一度寝てしまえば、この混沌とした気持ちもリセットされるはずだ。
そう思った俺は、そのまま髪と体を洗い、バスタオルで体を拭きながら浴室を出た。
「さむっ」
浴室から出ると、浴室より低い外気温が、体に付いた水滴を蒸発させて俺の体温を奪っていく。
せめて最後ぐらいお湯でもかけて出ればよかったと思いながら、さっさとパジャマに着替え、髪を乾かし始める。
前髪を乾かしきって目を開けると、鏡に映った男が、顔が赤く火照らせていた。
「シャワー浴びすぎたかなぁ」
考え事している間、ずっとお湯をかぶっていたので、のぼせてしまっても不自然ではない。
だから、決して告白されてからずっと顔が赤いわけではない。……はずだ。多分。
「……寝るか」
俺は髪が完全に乾ききっていないのにドライヤーを止め、寝る準備を始めた。
脳を働かせるような作業でないと、すぐに紗季が頭をよぎってしまう。
もう今日はこれ以上は紗季の顔も告白も、思い出したくない。
心臓が爆発してしまう。
そうして俺は、俺史上最速の寝る準備を成し遂げて布団で横になった。
まぁ、紗季と夏の暑さにうなされた俺は、結局考えすぎてすぐに寝ることはできなかったのだが。
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