第113話 退歩か進歩か
「『
紗季の口から出た言葉に、驚きつつも笑ってしまう。
なぜなら、紗季の口からこんなクサいセリフ今までに聞いたことがなかったからだ。
まさに、俺が言うような歯の浮くようなセリフ。
聞かされた自分が鳥肌立ってきた。
だけど、ここはふざける場面ではない。
俺は上がった頬を引き締めて、声のトーンを重くした。
「覚悟は固いのか?」
「もちろんよ。冗談なんかじゃないわ」
紗季にやられっぱなしというのも癪なので、俺も負けじと紗季の顎を掴んで顔を上げさせる。
傍目から見たら顎クイしている男と、顔に手を重ねている女というロマンティックな場面に見えるだろうが、実際はそんなに甘い空気なんて流れていない。
そしてそのまま見つめ合うこと数秒。
その間、紗季の目が逃げることも、色を失うこともなかった。
ただの純然たる覚悟と意志がそこに映っていた。
「……分かったよ」
俺は観念して、紗季から手を離し、一歩後退しながら白旗を上げた。
正直に言って、言いたいことは山ほどある。納得だっていってない。
親友を辞めたら家族が手に入るという謎理論も良く分かっていない。
だけど、紗季の決意は揺らがないだろうし、せっかく紗季が成長しようとしているのに妨げるわけにはいかない。
「ふふっ」
俺が諦めたことが分かると紗季は、軽く口角を上げてほほ笑んだ。
まるで、親にわがままを言っておもちゃを買ってもらった少女のように。
それほど純粋で健気で、そして少しいじわるな笑顔。
そんな魅力がたっぷりの表情なまま、紗季は口を開く。
「私はね、知らないうちに賢太に依存していたみたい。もちろん、これが悪いことだとは思っていなかったけど、染井さんに教えられたの、このままじゃ私にとって良くないことになるってね」
「愛奈が……」
紗季の言葉を聞いて、やっとピンときた。
やけに愛奈が申し訳なさそうな顔でお手洗いに行くものだから、すごい心配だったのだがそういうことだったのか。
「染井さんを責めないであげて。私のためにしてくれたことだから」
「いや別に責めないけど……」
俺が神妙な顔をしていたせいか、紗季が愛奈をかばうようなことを言ってきた。
しかし、それは筋違いというものだ。
別に愛奈のせいだとは思っていないし、むしろ紗季を変えてくれた愛奈には感謝している。
なんて、ここにはいない、用もなくずっとトイレに幽閉されている少女のことに思いをはせていると、紗季はいっそう眩しい笑顔で声を出した。
「賢太、私はこれから楽しみなの」
「楽しみ?」
「そうよ。今まで賢太の親友だからこそできたことはいっぱいあったけど、できなかったこともいっぱいあった。この四年間でできたことはほとんどしたから、後の八十年間でできなかったことをやるの」
紗季が壮大な未来設計を言い始めて、その中には俺には分からない所もあったが、分かるところもしっかりあった。
なんだかんだ言って、俺も友達としての紗季と過ごすのに期待していないわけではないらしい。
「でもな、紗季。親友を辞めるって言っても、俺たちの関係は今後どうなるんだ?」
「そうね……、友達? になるのかしら」
「なんでそんなに疑問形なんだよ」
「だって、そんな一か月足らずの関係の名前なんてどうでもいいし」
「?」
今、紗季がとても重要なことを言った気がした。
思わず聞き逃してしまうほどに軽く言ったし、言った紗季の態度も雰囲気もいつもと変わらず平然としていた。
あまりにも軽い発言。俺でなけりゃ聞き逃しちゃうね。
「っていうか、友達と親友ってどう違うんだ?」
「普通の男女の友達がしないであろうことはしないわ」
「えっ……」
紗季の意外な答えに、血の気が引いていくのを感じる。
俺たちが友達だったのはるか前のことだ。
今更友達に戻っても、何が異性の友達とすることで、しないことなのか皆目見当がつかない。
そもそも、俺に女友達なんて後は愛奈と凛くらいしかいないし、しかもこの二人は特殊な例だと思うので全く例にならない。
「用件もなく、暇をつぶすための電話は?」
「だめよ」
「待ち合わせして一緒に登校は?」
「……だめ」
「講義受けるときに隣に座るのは?」
「……うーん、まぁ、それは良いでしょう」
紗季も俺と同じ状況のはずなので、自分のあてにならない価値観を基に、精一杯考えて答えているのだろう。
その証拠に、訊いてみて分かるがその区別はとても緩く曖昧だ。
これは俺も一緒に考えないと、すぐに親友に戻ってしまいそうだ。
そうなると、今日の紗季の頑張りを無に帰してしまう。
「じゃあ、名前呼びもだめだな」
「……え?」
俺も友達と親友の境界線を考えて放った言葉なのだが、なぜか紗季が死んだような顔になった。
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