第106話 波


「退院おめでとう!」

「ありがとうございますっ!」


 ついにやってきた退院の日。

 俺はそんな日に病院の外で仁王立ちして待っていると、自力で車いすを押してやってきた凛に言葉をかけた。


 今日の凛はいつも見る患者衣ではなく私服を着ており、いささか新鮮な気持ちになる。

 今までにも散歩に行く際なども私服の時があったが、その時とは違って今回は正式な退院なため、なぜか違うように見える。


 太陽も凛の退院を祝福しているのか、いつも以上にギラギラと眩いて彼女にスポットライトを当てて輝かせる。

 つまりめっちゃ直射日光が当たっているということ、彼女のきめ細かく白い肌を守るためにすぐに移動しよう。


「まさかお祝いの言葉を言いに来てくれるとは思いませんでしたよ」

「いやぁ、どうしても当日に言いたくなっちゃって。居ても立っても居られなかったんだよ」


 そう言って俺は阿瀬さんの裏に回り、車いすのハンドルを握る。

 今となっては彼女の車いすを押すことは俺にとっての仕事の一環、というか義務になっているので、簡単に彼女の行動権を握ることができた。


「別に無理して来なくて良かったんですよ? 今度の退院パーティーの時でよかったのに」

「だってそれはまだまだ先の話だろ。それまでに何回も会うのに、その時まで言わないというのもおかしな話だ」

「そんなもんなんですかねー」

「男の子としてのプライドってやつだ。男子はな、女子の前ではかっこつけたいものさ」


 男子の生態系を良く知らないであろう、女子校のお嬢さんに男子の何たるかを教えてやるもいまいち納得していない模様。

 それどころか、俺に対するぐちぐちと文句は続く。

しかし、その顔は不服そうなものとは程遠い、むしろ真逆でにやけっぱなしだ。

 それほどに俺が来たことに喜んでくれているのだろうか、それならなんて嬉しいことだろう。


「で、なに自然と私の車いすのハンドルを握っているんですか。今日は久しぶりに家でゆっくり過ごす予定なんですよ」

「知ってる。おじさんから今日は凛は暇だって聞いたからな」

「暇って……。私は家でゴロゴロしながら日常を満喫するという仕事があるんです!」

「それを世間では暇っていうんだ。女子校生じゃなくておじさんが言ったと置換してみ、言ってる意味わかるから」

「分かりました! 分かりましたから速度上げないでくださいよ! ここら辺あんまり舗装されてないからガタついててお尻が痛いんですよ!」


 俺は凛が車いすで暴れているのも無視して、遠慮もなく車いすを押し進めていく。

 まな板の上の鯉ならぬ、車いすの上の乞い……なんてね!

 またつまらぬ諺を作ってしまった。


◆◇


 暑さで静かになった凛を丁重に扱いながら歩くこと数分。

 やっと目的地が見えてきた。

 そことで心にゆとりができてきて、足の疲れも暑さも緩和されてくる。

 病は気からというが、やはり活動におけるメンタルの関連性は大きい。


「そろそろ着くな」

「やっとですかー? 脱水症状でミイラになるところでしたよ」

「さっきお茶を買ってあげたじゃないか……」


 俺がそろそろ着くことを凛に言うと、不満にあふれた声が俺の鼓膜を揺らす。

 ずっと空調の完備された部屋にいた箱入り娘は、自分での体温の調整をする機能が落ちてしまっているのかもしれない。

 あの真夏の体育館でやるバドミントン経験者でもここまで鈍る物なんだと、自分も肝に銘じることにする。


「で、なんですか? ここ」

「ふっふっふ」

「いや『ふっふっふ』じゃなくて、説明してくださいよ」

「ふっふっふ」

「なんなんですかこの人!」


 別にふざけているわけではなく、ただただ楽しみからくる笑いがこらえきれない。

 

 俺はここに着くまで凛に今日の予定を全く言って来ず、凛は今日何をやるかを知らないし想像もできない……はずだ。


「普通の駐車場じゃないですか。真夏のアスファルトは嫌です。蒸発してしまいますよ」

「そう! 駐車場!」

「いきなりテンション上げないでくださいよ。普通に怖いじゃないですか……」

「えっ、ごめん」


 あまりものテンションの高さで引かれてしまったので、少し自重することにする。

 夏でテンション高い奴って、最高に嫌だからね。分かるよその気持ち。


「もしかして、車……ですか?」

「そう! そうそうそう! そうなんだよ!」

「うるさいですねぇ! 波が激しいな! キチンの波か!」


 凛が気づいてくれたことが嬉しく、気分上々になって凛にはたかれてしまった。

 だけど分かってほしい。

 この時のために数ヶ月前から準備していたんだ。

 いつもはコンドラチェフの波ぐらいの起伏の変わりようなんだから許して?

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