第104話 変化と進化

 太陽によって熱せられたアスファルトが少し先の視界を歪ませ、あまりの暑さで精神もくらくらとしてきたある夏の午前中。

 私は一人、本格的な暑さになる前にある場所へと向かっていた。


 それまでの長い長い道のりを歩いていると、色々とフラストレーションが溜まってきた。

 

 ああ、こういう時に髪が長いのは本当につらい。

 帽子や日傘をしても、やはり黒髪と言うのは日光を集めやすく熱くなりやすい。

 ひと夏で二回目の熱中症もあり得る。

 地球温暖化ってどうにかならないのかしら。

 プラスチック問題とかいう前に暑さをどうにかしてほしい。


 なんて愚痴をこぼしながらとぼとぼ歩いているが、これはあくまで表面上の上辺の考え。

 あまりの暑さで腹が立ってしまっただけ。

 レジ袋の有料化も納得しているし、どんなに不愉快になってもこの髪は切らない。

 

 あいつが黒髪ロングが好きって言ったから。

 あいつの好みが変わるまで、このままで。


 あー、早く着かないかなー。

 

◆◇


 本日の目的地であった病院に着くと、涼しい風が私を出迎えた。

 本当にクーラーはありがたい。誰が発明してくれたのかは分からないが、天才すぎる。


 そんな暑さのあまり、さきほどから知能指数が低くなっていると感じながら、慣れた階段を上っていく。

 クーラーでいくら体が冷えると言っても、少し前まで三十度超えの日中を歩いていたので四階まで行くとまた少し汗をかいてしまう。

 大学の友人や、適当な男子相手ならこのままでもいいのだけど、これから会う後輩には良い先輩だと思われたいという見栄がある。

 

 四階に上り切った私は、化粧室へと向かうことを決めた。


◆◇


 化粧室の鏡を見ながら、私は作業をしながら考え事をする。

 

 最近、私は垢が抜けたというか、色づいてきた。

 モデルの仕事上、スキンケアやメイクもしてきたが、面倒くさいと思って適当にやっていた。

 適当は少し言い過ぎだったかもしれないけど、仕事に消極的とまではいかないものの、やってと言われたことを素直に言うことを聞いていただけだった。

 しかし、染井さんと話してからだろうか、積極的に見た目を気にするようになった。

 スタイリストさんや、事務所の先輩に服やメイクについて聞いて回ったし、ファッションのことも興味が湧いてきた。

 

 だから今では、自分の汗や肌が気になってしまって仕方がない。

 早く夏が終わってほしい。夏は乙女にとっては敵だ。


 そう結論付けて、メイク直しや汗を拭き終えて化粧室を出ると、お目当ての病室が見えてくる。


 何回も見た扉。 

 だけど今日は少し事情が違う。

 始めてこの部屋に一人で来た。

 ここに来るときはいつもあいつがいて、二人だけで話した前回もあいつを追い出した後。

 

 そう考えると、夏の暑さが要因ではない汗が手のひらから出てきた。

 ここに来るまでも結構な緊張ではあったが、なおさら緊張してきた。


 でも、私はあの子に会って話さなければならない理由がある。

 だから、ここで止まるわけにはいかない。

 

 私は震える右手を左手で支えながらドアを三回ノックした。


「どーぞ」

「失礼します」


 扉の向こうから聞こえてきた声はいつものあの子の声で、少しばかり疑問の色がにじんでいた。

 誰がお見舞いに来たのか、疑問に思っているのだろう。

 だってあいつは今日は完全な休日だって言っていたし、あいつが来ない日を狙ってアポなしで来たし。


 ◆◇


 病室に入って阿瀬さんを見やると、参考書を開いて勉強をしているところだった。

 勉強中にお邪魔するのは悪いなと思ったが、阿瀬さんがそのことに気づいて参考書と持っていたシャーペンをしまった。


「あれ? 紗季先輩じゃないですか、珍しいですね。どうしたんですか?」

「いや、ね。色々と言いたいことがあって。とりあえず、一番最初に言いたいのは……」


 そう言って私は、一度言葉を止めて口角を上げ、笑顔で祝福の言葉を送った。


「退院おめでとう」

「えっ、あっ、ありがとうございます!」


 阿瀬さんは驚愕と嬉しさが入り混じったような顔で返事をしてくれた。

 作り笑顔ではない、心の底からの笑顔をされると言った私の心も温かくなってきた。

 どっかの笑顔を自由自在に操る女とは違って、なんて心が清いんだろう。

 爪の垢でも貰って煎じて飲ませようかしら。


「明日が退院なんですけど、まさか今言われると思ってなくて油断してました……」


 てへへと頭をかきながらデレっとした阿瀬さんは本当に可愛く見える。 

 可愛すぎ! 抱きしめたくなる!


「それを言うためにわざわざ来てくれたんですか?」

「は、半分ぐらいはそうだけど、半分ぐらいは違う理由よ」

「はて、なんでしょうか?」

「前回話したことって、阿瀬さんは覚えてる?」


 浮かれていた自分を制して、今日来た理由を思い出した。


 私は少し不安そうな顔をして、緊張感から阿瀬さんを上目遣いで見てしまう。

 そのことで祝福ムードが一変、不穏な空気に代わって、私は手を無意識にグッと握った。

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