第81話 俺と親友の中学時代 ~狂気~

 親切なおじさんの指示通りに四階の端の病室に行くと、表札に『有峰』と書いてあるのが見えた。

 この部屋に有峰さんがいると確信を持ちながらノックをする。


 コンコン。

 

「有峰さん、久野です。失礼します」


 自分の名前をはっきりと述べてからドアを開ける。

 彼女は今、精神的に不安定なので不審者が入ったなどの心配をかけたくないし、刺激も与えたくない。

 そう思いながら恐る恐る入ると、彼女はベッドに座って何もせずにただ空を眺めていた。


「あれ? お兄ちゃんだー」


 彼女は一テンポ遅れて俺の存在に気づくと、感情のないまま言葉を発した。

 その言葉は息苦しい空気を切り裂いて、より深い深淵を覗かせた。



 俺は今、何を聞いた?



 人間、言葉を発すれば大小問わず何かしらの感情は乗っかるものだ。

 しかし、彼女の言葉はただただ『無』。

 それは棒読みのような見せかけの『無』なんていう、ちゃちなものでは決してなかった。


 そして発した言葉の内容。

 どこに有峰さんのお兄ちゃんがいるんだ?

 俺は自分の後ろや隣をキョロキョロと見渡したが、そこには誰もいない。

 思い返してみれば、有峰さんは兄弟姉妹はいないと言っていたはずだ。


 ということは……。


「どうしたの、お兄ちゃん。そんなに周りを見渡して、変なお兄ちゃん」


 彼女は俺を見て笑った。

 いや、笑ったと言っていいのか分からない、形容しがたい顔つきをした。


「ていうか、お兄ちゃん。お見舞い来てくれたんだ! うれしいなー。お母さんはたまに来てくれるけど、お兄ちゃんとお父さんは一回も来てくれたことなかったから悲しかったよ……。」

「そういえば私って、なんで病院なんかにいるの?」


 先ほどから止まることのない話に、俺は全く着いていくことができない。

 だがその中でも、一つ確信を持ったことがあった。

 俺は今、有峰さんの中ではお兄ちゃんとして見えているらしい。

 その理屈で言うと、きっとお母さんは叔母さんのことを指しているのだろう。

 彼女の親と連絡が取れていない以上、お見舞いに来てくれているはずがない。


 これはきっと、有峰さん流の防衛機制というやつだろう。


 人は何かしら心に障害が起きそうなときに、防衛反応を起こす。

 これを防衛機制というが、それにはいくつかの種類がある。

 その中でも彼女は辛かった思い出を忘れる『抑圧』、足りない何かを他で保管する『代償』を使っているのだろうか。

 彼女は入院した経緯を覚えていないようだし、いなくなった家族という穴に俺と叔母さんをあてがっている。


 まぁ、保健の授業で習ったばかりなので眉唾物なのだが。


「有峰さんは……」

「有峰さんって……、いつものように紗季って呼んでよ」

「さ、紗季」

「うん。で、どうしたのお兄ちゃん」

 

 生まれて初めて女性の下の名前を呼んだのに、違う意味でドキドキしている。

 彼女の純然たる狂気の前に、俺はいうことを聞くしかなかった。


「紗季は――、」


 有峰さんの『なぜ私は病院にいるのか』という問いに答えようと口を動かしたが、俺の口はシャットダウンされたように固まった。


 俺はこの問いにどう答えればいいのだろう?

 正直に答えたとしても、今の彼女はそれを納得どころか理解すらしないだろう。

 だからと言って、嘘をつくにもどの嘘をつくのか選ばないといけない。


「お兄ちゃん?」


 有峰さんが、首をかしげて上目遣いをする。

 普段の彼女なら、数万円払ってでも受けたい夢のようなシチュエーションだが、今の暗く濁り切った目では何も嬉しくない。


「あら、お兄ちゃん来てたのね。言ってくれればよかったのに」


 困り切った俺が声のする方に振り向くと、そこには有峰さんの叔母さんが立っていた。

 叔母さんとのアイコンタクトで、『話を合わせろ』というのが伝わってきた。


「あ、お母さん。来たんだ」

「来たんだじゃないわよ。ちょっと来なさい」


 そう言って俺は、叔母さんに引っ張られて病室から外に出された。

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