第20話 幕間 日常の崩れ去る音

 高校二年のある日のことだった。

 たまたま部活が休みの日曜だったことを覚えている。

 

 朝起きた時から体が重く、力が入らない。

 その時の私は、前日の部活が残っているだけだと思っていた。

 しかし、時間が経つにつれ症状が悪くなっていく。

 物が二重に見えるし、瞼が自然と垂れ下がってきて、半分ほどしか開かない。

 新手の風邪だと思った私は、そこまで実害があるわけではなかったので親には言わなかった。

 結局、その日は一日中、布団で横になることにした。

 明日は学校なので、治っていることを祈りながら。


◆◇


 翌日。

 朝起きると、昨日のような症状はなかった。

 瞼も上がるし、けだるさもない。

 母が用意してくれた朝ごはんを食べ、学校へ行く準備をする。

 鏡と向かい合って、身だしなみを整える。

 鏡に映ったいつも通りの私を見て、笑みがこぼれてしまう。

 自分で言うのも恥ずかしい話だが、私の顔は整っている。

 親も友人も言うのだから、これは決定事項だ。

 鼻歌を歌いながら長い髪に櫛を通す。


 いつもより少し、髪のセットの時間がかかってしまった。

 しかし、『時間がかかるから』だとか、『女子高に通って異性がいないから』といって、身だしなみを妥協したくない。

 特に、大好きな母から遺伝した、この艶がある黒髪のセットはどんなに遅刻しそうでも手を抜きたくない。

 それが私のポリシーだった。

 モーニングルーティンを終えた私は、急いで玄関で靴を履く。


「行ってきます!」

「「いってらっしゃい!」」


 玄関でどたばたしながら、親に溌剌として言うと、親からも同じく溌剌と返ってくる。

 いつもと同じやり取りだが、この短いやり取りで私は一日頑張ろうと思う。




 今思えば、これが親に言った、最後の元気な言葉だったかもしれない。


◆◇


 二時間目の途中からだろうか、シャーペンを持つ手に力が入らなくなってきた。

 黒板の文字もぼんやりとして見えない。視界も狭くなってきた。

 大学受験で必要になる数学の授業なので、頑張ってついていくが、あまりにも進むのが速い。

 いつもなら余裕で解き終わるのに、今日は一問も解くことができない。

 昨日の風邪はまだ治ってなかったみたいだ。

 友人にノートを見せてもらうことにしよう。


◆◇


「凛っ、大丈夫?眠そうな顔をしているけど」


 二時間目が終わり休み時間になると、友人の玲菜れなが心配そうに話しかけてくる。

 そんな顔になってしまっているのか、心配させて申し訳ない。


「ら、らいじょうぶよ」

「あはは、本当に眠そうじゃん。でも、月曜の午前中って眠くなるもんね。分かるよその気持ち」


 玲菜は好意的に受け取ってくれたが、本当に眠いわけではない。

 なぜだか呂律が回らない。朝はあんなに元気に言えたのに。


「でも、四時間目は体育だから、それまでの辛抱だよね」


 そう言って玲菜は、時計を見て席に戻ってしまう。

 私は玲菜に手を振ることも、引き留めることもできなかった。

 この時にはうすうす気づいていた。

 これはただの風邪ではない。風邪の範疇を明らかに超えている。

 今日はお昼休みに早退しよう。

 

 ◆◇


 三時間目をどうにか切り抜けた私は、更衣室に行く準備をしていた。


「凛っ、体育行こっ!」


 玲菜が誘ってくれている。

 私も椅子から立ち上がって同意を示そうと思ったが、どうにも力が入らず椅子から立てない。

 私が試行錯誤するのを見て、玲菜が怪訝そうな表情をする。


「? 凛、どうしたの?」

「さ、さき、いってて」

「分かったけど……」

 

 玲菜に心配をかけさせたくない私は、立ち上がることを諦めて先に行かせることにした。

 しかし、玲菜が心配そうな顔で見てくる。

 玲菜とは昔からの友達なので、見抜かれたのかもしれない。


「本当に大丈夫?さっきより眠そうな顔だけど。」

「う、うん……」

「あっ、もしかしてトイレ?だったらごめんね、付きまとちゃって」


 玲菜が予想の斜め上をいく発想をした。

 しかしこれは私にとっては格好の機会なのでそうすることにした。

 今は、学校でトイレをするやつなどという、世間体を気にしている場合ではない。


「そ、そうなの」

「だったら言ってよね。心配しちゃったじゃん。友達なんだから気にしないでいいのに」


 玲菜はそう言って、先に更衣室に向かう。

 玲菜の馬鹿さに初めて助けられた。

 さて、私も頑張っていかなければ。


◆◇


 壁にもたれながらも、体育館に向かう。

 授業はもうとっくに始まっている時間で、遅刻ではあるが授業に参加する。

 みんなはすでにバレーを始めていた。


「遅刻ですよ、阿瀬さん。いつも最初に来ているのに、珍しいのね」

「す、すいません」


 体育の教師に怒られて、申し訳なさそうな表情を作る。

 別に私だって遅れたくて遅れたわけではない。むしろ来たことを褒めてほしい。

 

「まずはしっかりと準備体操をしてね。終わったら参加していいわよ」


 私は言われた通り、準備体操を始める。

 しかし、準備体操をしただけで体が悲鳴を上げる。

 どうしてもゆっくりになってしまうし、息が切れてしまう。


「阿瀬さん。遅刻した上に、体操を手を抜くなんて根性があるのね」


 先生にからかわれてしまったが、そんなことに気を使う余裕はない。

 息が苦しい。

 呼吸が難しい。

 どうにか呼吸をしようとする。

 しかし、気が付いた時にはその場に崩れ落ちていた。

 



 みんなが騒いでいたが、私にはその場の記憶があまり残っていない。


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