転
シノワズリの腕輪を寄越せ。
親友の口から出たあり得ない一言に、ロココは思わず耳を疑った。
他の何かならいざしらず、よりにもよって『シノワズリの腕輪』を寄越せとは。
ロココ=フラゴナールのことを少しでも理解しているなら、普通はそんな提案をしようとは思わないはずだ。
「だ、駄目だよ? 前にも言ったと思うけど、これは私の大切なもので……」
困惑しながら断るロココだったが、ルネは貼り付いた笑顔のままなおも食い下がった。
「友達でしょ? だったらそれくらい、譲ってくれたっていいじゃない」
「他のものならいいよ。でも、この腕輪だけは絶対に駄目。これがあるから、私は今までずっと頑張ってこられたんだから」
「うん、知ってるわ。知った上で、渡しなさいと言ってるの」
このあたりで流石にロココも、親友だと思っていた彼女の様子が明らかにおかしいことを認めざるをえなくなってくる。
怖い。つい先ほどまで全幅の信頼を置いていたはずの彼女のことが、たまらなく怖い。
無意識のうちに体が一歩後ろに下がっていた。
「ルネちゃん……?」
「でも、知ってた。その腕輪だけは、ロコちゃんが絶対渡してくれないってこと。だからこそ……」
ルネは、ロココが離れた分だけ近づいて、再び元の距離感に戻った。
そして。
「奪っていくことに意味があるのよ」
「な、何を言って――――」
次の瞬間、ルネの強烈なローキックが、ロココを右から吹き飛ばした。
ロココは砂利混じりの乾いた土の上を転がった。
「うぐっ……!」
額を少し砂利にこすって、ロココの顔面から血が流れ出る。
彼女はそれをぬぐいながら立ち上がり、困惑しきったようすでルネに向き直った。
どうして。なんで。ロココからそんな言葉が出る前に、ルネの方が先手を打って語り出す。
「ここなら人目につかないから、死んでも誰にも気付かれないわよ」
「ど、どういうことなの……?」
「苦しみたくなかったら、さっさとその腕輪を渡しなさい。そうしたら、できるだけ痛くないように殺してあげる」
「ま、待って。なんで殺すとかそんな話になってるの? 私たち、友達だよね!?」
しどろもどろになるロココ。
ルネが何を言っているのか、何一つ理解できなかった。
「友達? あはっ、あはははは……」
乾いた冷笑。
静寂のあばら屋に、からからと響く邪悪な笑い声。
ひとしきり笑った後、ルネの目元からは粘っこい涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなく、笑って生まれた涙だった。
「ま、そうよね。そう思われて当然。だって、ずっとそうなるように動いてたんだから……!」
「えっ……ひぐっ」
ルネに足を払われて、ロココはうつぶせに倒れた。
着地の時に手を切って、白い肌から血が流れる。
地べたを這いずるロココを見ながら、ルネは鼻歌を奏でる。
そして、ルネの手首から腕輪を手際よく抜き取った。
「ロコちゃん、知ってる? 私ね。できもしないことにあくせくして、必死に頑張ってる奴を見ると虫ずが走るの」
その声音は今まで彼女が見てきた誰よりも感情的で、嘘なんて一つもついていないように見えて。
いよいよロココは目の前で起こっている出来事を認めざるをえなくなりつつあった。
「私のこと、ずっと騙してたの……? この、腕輪を奪うために……?」
「腕輪? まあ、奪って売ったら結構いい臨時報酬になるだろうけど、一番は――――」
「うぐっ……!」
「あんたみたいな脳天気な馬鹿娘をどん底に落とすのが、私の昔からの趣味だから」
倒れたロココを見下ろすルネの目は、石のように冷めていた。
立ち上がろうとしたロココの頭の上に、砂利だらけのルネの靴がこすりつけられる。
「この二年、私によく懐いてくれました。周りに他に仲間がいるわけじゃないんだから、当然よね。私にすり寄らないと、ひとりぼっちになっちゃうんだもの」
ロココの前にしゃがみ込んで、ルネはほの暗い微笑を浮かべる。
「だけどごめんね。私もあんたのこと嫌いなの。弱い癖に勘違いして、自分が特別になれると思い上がってる間抜けな馬鹿が。見てると心底、苛々する」
ロココは、震え声でルネに尋ねた。
受け入れれざるを得ない現実が眼前に近づいていたとしても、彼女はまだ認めたくなかったのだ。
ルネはそれだけ、彼女にとって大切な存在になっていたから。
「私のことが嫌いなんだったら、どうして私を助けてくれたの?」
馬鹿ね。持ち上がったルネの口角には、そういうニュアンスが含まれていた。
「考えてもみなさい。才能のない普通はすぐに折れてさっさとどこかに行っちゃうでしょ。それじゃつまらない。もっと苦しんで欲しいのに、あっさりいなくなられたらつまらない。だから……」
恍惚としながら、詩を吟ずるようにルネは語る。
まるで種明かしの『この』瞬間が、待ち焦がれた至福の時であると言わんばかりに。
「……救いをあげたの。四面楚歌でも、万年無能でも、一人それを許してくれる誰かがいたら、人間、耐えられちゃうものでしょう? だから、味方のふりをして救いを与えた。絶望より残酷な一握りの希望をね」
「そ、そんな……」
「でも、駄目ね。何を言い出すかと思ったら、魔法がどうのこうの……」
がつがつと、背中からロココを蹴飛ばすルネ。
その一撃一撃に、華奢なロココは悲鳴を上げる。
「あぐっ、うぐっ!」
「田舎育ちの馬鹿なあんたでも知ってるはずよ! 魔法使いが、世界全体で百人もいないってこと! そして、その誰もが超一流のエリート! 当然よね。超常現象を起こせるなら、どんな仕事だってよりどりみどりだもの! 当然、私たちのような底辺職に関わる必要があるはずないわ!」
痛みに耐えながら、ロココは思う。
そうか、ルネも自分の言うことを信じてくれなかったのか。
でも、それも仕方ないのかもしれないな。
だって先に自分を騙していたのは、ルネの方だったんだから――――と。
「その魔法使いが、よりにもよってあんたに? 側溝のチワワに力添えしようって言い出した? 冗談にしてもレベルが低いわ!」
「……私は、別に嘘なんて……」
「ああ、あんたの中では真実になっちゃってるのね。可哀想に。そんなことだろうと思ったけど!」
「あぐっ……!」
「だったらもう、壊れるのも時間の問題ってところかしら! そういうことよね! だから今日こうして呼び出して、全てを明かすことにしたのよ!」
そこで一旦、ルネの攻撃が止んだ。
ロココがそっと顔を上げると、ルネの吐き出した唾が彼女の顔にちょうど落ちてきた。
「明かす前に壊れちゃったら、折角のカタルシスが台無しになっちゃうもんね?」
「……全てを明かして、それからどうするの……」
「あら、そんなことも分からないほど馬鹿だったの? じゃあ教えてあげる。まずはこれから好き勝手にいたぶって、あんたのことを壊す! 冒険者なんて二度と目指せないような体にしてやるわ」
もっとも元から、冒険者というには明らかに弱すぎたけど。
そう言って、ルネは肩をすくめた。
「それで自分の体がどうなったのか、あんたによーく理解させて……表情をじっくり楽しんでから……そうね。殺してもいいけど、知り合いの人さらいに売り飛ばしてもいいわね」
ロココの顔を品定めするように、ルネは指で細やかになぞる。
ロココが背筋が凍るような感触を覚えたのは、きっとくすぐったかったせいではない。
「あんた、見た目だけはいいんだから。たとえ半身不随になったとしても、欲しがる物好きくらいはいると思うわ」
見た目だけはいい。それはロココ=フラゴナールに対して投げかける言葉において、最大限の侮辱だった。
「あんたも馬鹿よね! それだけ綺麗な顔をしてるんなら冒険者になろうだなんて考えずに、大人しく適当な男を引っかけて嫁いでれば良かったのに」
「……」
「シノワズリ・ブーシェにかぶれただかなんだか知らないけど、下らない願望のためにここで人生終了する羽目になるなんて、本当無様ったらありゃしないわ!」
それはきっと、正論以外の何者でもない。
ロココだって、そんなことは旅立つ前から百も承知だ。
自分が向いていないことなんて分かった上で、それでも冒険者になりたくて、ロココはこの道を選んだのだから。
だけどその道は、今まさに絶えようとしている。
「さ、そろそろお別れのお祈りでもなさい。何か言いたいことでもあったら聞いてあげるわよ」
「……っ!」
眼前に迫る死に、動悸が激しくなる。
血流が全身を脈打つように巡り、意識が急激に活性化して――――ロココは、瞬間的に走馬燈を見た。
過去を一瞬で想起して、ロココはついに思い出す。
立派な冒険者になって自分が何をしたかったのか。
何をしたいと思っていたのか。
ロココ=フラゴナールが冒険者を目指した理由。
第一にシノワズリに認めてもらい、肩を並べられる存在になりたかったということ。だが決してそれだけじゃない。
あのとき自分は盗賊に襲われ死に瀕していた。生き残ったのはシノワズリのおかげだ。
だからシノワズリがそうしたように、いつか自分も誰かを救える人間になりたいという、献身的目標も確かにあった。
それだけじゃない。昔から体が弱かったから、元気に村を走り回れる同年代の子供が羨ましかった。強い冒険者になれば、たくましく戦うことができるようになるだろう。手段と目的が逆転している気もするが、そういう願望も無視できない。
それに、一度この道で行くと決めて時間を費やした以上、今更別の道になんて進めないという、サンクコスト効果的側面もあった。これは正直、本来なら一番どうでもいいことだけど。
つまりは全部。全部だ。
脳裏に浮かんではあぶくのように弾ける願望の一つ一つ。
どれか一つが際だって大切なわけじゃなく、全てが大縄をなす一本一本の紐のように、重なり合って夢を形作っているのだ。
そしてこれだけ沢山の理由がある以上――――ただ人の力を借りたというだけで、全部が台無しになるわけじゃないのに。
なのに自分は。自分の才能だけで達成することに固執して、今の顛末を招いてしまった。
「……私は……馬鹿だ……」
「え? 今更何言ってるの?」
「……大事なことがなんなのか……こんなところになって気付くなんて!」
「!」
悔しい。
差し伸べられた手をはねのけられるほど、今の自分に余裕なんてないということ。
ちゃんと分かっていたはずなのに、どうして愚直になれなかったのか。それが悔しくてたまらなかった。
もしあのとき、マニエリの提案に乗っていれば、妥協しながらも夢に近づけていたのかもしれないのに。
だが過ぎたことを悔やんでも仕方がないということを、彼女はよく知っていた。
だから今やるべき事を、しっかり見据えてやらねばならない――――。
そう思ったとき、不思議と体の奥から力が湧いてきて、気付けば彼女はルネに向き合うように立ち上がっていた。
滅多打ちにしたはずのロココがおもむろに立ち上がったことに驚いたルネは、一瞬だけ反応が遅れて立ち上がるのを許してしまう。
だがすぐに、吹き出すように息を吐いてゲラゲラ笑った。
「ぷっ……あはは! そうだったわね! 何にも才能がないと罵倒されてたあんたにも、一つだけ冒険者向きの才能があったわね」
笑ってはいるが、ルネの気迫は張り詰めている。
一切の隙も見当たらない。ロココは上級冒険者の実力の高さを改めて痛感した。
少しでも逃げる素振りを見せれば、すぐにナックルダスターによる本気の一撃を食らうことになるだろう。今までのものとは訳が違う。
ロココは聞いたことがあった。ルネが過去に拳一発でお化け熊や人食い鮫を撃沈したという話を。
もしそれが本当なら、生身の人間であるロココがそのパンチを耐えられる理由などない。
「あんたのたったひとつの冒険者適性、それは持続力! 体力だけは無駄にあるから、一日中ネズミを追いかけ回したってへばらないのよね」
そう――――ロココは体力だけは人並み外れて優れていた。
元々低出力なだけに低燃費で、それに重ねて二年間ひたすら長時間労働を続けていたせいで、スタミナだけは延々成長し続けたのだ。
「まあ仕留められないんじゃ何の意味もないけども」
「……ありがとう、褒めてくれて」
「褒めて? 馬鹿にしてるのよ! 一応人並み以上の体力があるのに、他の全てが駄目駄目の駄目だから何にも活かせてない! こんな滑稽なことが他にある? 今だってそうよ」
両手のナックルダスターを打ち鳴らし、ルネはロココを威嚇する。
脅しているというより、遊んでいるように見えた。
「死力を振り絞って立ち上がったのは褒めてあげるわ。だけどそれでおしまい。抵抗する強さがないから戦えばすぐに死んじゃうし、逃げ切る足の速さもないから、森へ飛び出してもすぐに追いつかれる。結局あんたは、ここで終わる定めなのよ!」
これも事実だ。
ロココ自身、今の状況から逃げ切れる気などまるでしない。
ただでさえルネと自分との実力差は万事において激しいのに、今の自分は全身を殴打されていて著しく体力を消耗している。こんな状態では、ルネに対抗することなんてできるはずがない。
だからって何もせずに終わるなんてことはしない。
何はなくともとりあえず抗ってみるのが、ロココ=フラゴナールの生き方だから。
「……定めなんて、答えが出てからしか分からない。結果が出ていない段階では、どれだけ絶望的だろうと私は足掻く!」
そうやって今までも生きてきた。
だとしたらこれからも貫いてみせる。
ロココのそんな毅然とした態度に、ルネはあからさまに不快感を示した。
激しく打ち鳴らされていたナックルダスターの音が止む。
ルネの顔が、醜悪にねじ曲がる。
「なにそれ……酔ってんの?」
ルネは我慢ならない様子で足下に痰を吐き捨てて、それから勢いよく飛び出した。
「青臭いことを……私の前で、そんな青臭いことを言うんじゃないわよ!!」
「っ……!」
腰の入った、ルネの本気の一撃が迫る。
逃げようとしたロココだったが、ここに来て体が悲鳴をあげて、その場でよろめいてしまう。
躱しきれない。もろに食らってしまう。
駄目だ。間に合わない、このままだと死ぬ。
はっとして、思わず目を閉じそうになるロココ。それすら間に合わない。
「……うっ!」
「……」
「…………」
「……」
「――――あれ?」
――――だが、ルネの放った一撃はロココの体に激突しながら、彼女を一切傷つけなかった。
腹部に当たったルネの拳は、殴ったというより添えられたかのような優しい感触だけをロココに残す。
そのまま腹肉をえぐり取ろうとするも、全く届く気配もない。
ルネは困惑していた。それ以上に、ロココも困惑していた。
ルネの本気の鉄拳を受けたはずなのに、どうして自分は今もぴんぴんしているのだろう。
「ど、どうなって……この!」
「!」
次の動きは明確に習熟度の差が出た。
ロココは動けない。
しかしルネは、分からないままに間髪入れず首目がけて蹴りを放つ。
困惑しきっていたロココは、もろにその蹴りを食らってしまう。
しかし、効かない。
首筋にルネの靴が突きつけられているのに、ロココは微動だにしなかった。
当たっていないとか、寸止めされているとかではなく――――間違いなく爪先が触れているのに、痛みを全く感じないのだ。
その理由に、ロココはひとつだけ心当たりがあった。
「何がどうなってるのよ! ああもう、死ねっ!」
ロココの顔面目がけて、捨て鉢になったルネの拳が迫る。
ロココは咄嗟にそれを右手で受け止めた。
岩を砕き、熊を一撃で昏倒させるルネの渾身の突きが、ロココの細腕に受け止められてしまったのだ。
「な、なによこれ。何がどうなってるのよ」
「……」
ロココは、そっとルネの体を左手で小突く。
すると。
「―――――はうっ!?」
ルネの体は、大砲に詰められた砲丸に勢いよく飛び出し、あばら屋の壁に激突した。
「な、何がっ……どうなってるの、よ……!」
口から血反吐を吐き、その場で悶えるルネ。
ロココは、この感覚を知っている。
突然今までの何倍もの力が体の中から湧いてくるその感覚を。
「……こ、これは……」
いよいよ確信を強めるロココの耳に、どこか遠くから拍手の音が届いてくる。
それは段々と近づいて、やがてドアが勢いよく開け放たれると同時に、拍手の主が姿を現した。
「素晴らしい。素晴らしい啖呵でしたよ、ロココさん」
極彩色のジャケットを羽織った、涼やかな空色の瞳を持つ男。
マニエリ=ヴァザールだ。
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