転居

 コウジに指示された場所には、古ぼけたビルが建っていた。


 ここに住むのだろうか、と戸惑いながらユイナがドアを叩くと、中からスーツ姿の男が出てきて、あるアパートの前まで案内してくれた。


 コウジの部屋よりは新しく見えるアパートだが、人の気配が感じられなかった。物寂しい建物を囲むようにして、色の濃いコスモスが咲き誇っていた。


 スーツ姿の男は菅原と名乗った。この建物を管理している会社の者だ、と言った。


「お姉ちゃん、首のところどうしたの?」


 ユイナの顔を見て、菅原は調子のよさそうな声で聞いてきた。その口調が、何となくコウジを思い出させた。


「金属アレルギーが治らなくて」


「へぇー、そうなの。大変だねぇ」


 菅原はアパートの階段を上って、二階の一番手前のドアの前で立ち止まった。


「コウジに話してあるけど、ここでしばらく暮らしてくれればいいから」


「しばらくって、どれくらいですか?」


「いいって言われるまで」


 ここに住むことに、どんな意味があるのかよくわからなかったが、それ以上聞いてはいけないような気がした。


 中は洋室で、ものがないせいか、コウジの部屋よりもずっと広く見えた。部屋の奥に、布団が一組積んであり、窓に柄のないベージュのカーテンがかかっていた。


「結構キレイでしょ?」


 菅原が笑いかけてきた。確かに古い感じも、汚い感じもしなかった。


「家賃どれくらいですか? あたしたち、お金ないんですけど」


「あー、わかってるわかってる。住んでもらうんだから、家賃のことは気にしないで。それに……」


 彼は何か言いかけて、ふと口をつぐんだ。


「……光熱費もうちで持つからね。ほんとに住んでるだけでいいから」


 取り繕うような言い方だった。


「このアパートって、他に住んでる人いるんですか?」


 ユイナが尋ねると、菅原はうなずいた。


「いるよ」


「静かですね」


「こんな時間帯だから」


 またそれ以上聞いてはいけないような気がして、彼女は口を閉じた。


 鍵を手渡すと、菅原は出ていった。連絡先は教えてもらえなかった。


 電気もガスも、水道も使えるようだったが、備え付けらしい冷蔵庫と奥に積んである布団以外に、生活用品は何もなかった。ユイナはここに来る途中に見かけたドラッグストアに行って、歯ブラシやトイレットペーパー、食料品などを買い込んだ。


 何もない部屋で、ユイナはコウジが来るのを待った。そのうち日が暮れかけてきたが、人が訪れる気配はなかった。


 窓を開けて、ベランダに出た。


 目の下に、コスモスの群れが揺れていた。


 ユイナはベランダで膝を抱えて座ると、目の前の道路に、コウジが現れるのを待ち続けた。

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