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 アーニャと倫が驚きを隠せないでいると、ボルドーは笑みを湛えたまま、腕に提げたバスケットを掲げるように持ち上げた。

「やっぱりここに居たのか。最近、アーニャとリンが、アリアの家によく遊びに行っているようだから、娘たちが世話になっている礼をと思ってね」

 バスケットには、小鹿亭のランチの定番メニューである生ハムとクリームチーズのバケットサンドと、白ワインのボトルが入っていた。

「アリアは昔からこのバケットサンドが好きだから、三人で分けて食べられるくらいの分を持ってきたんだが……思ったより、人数が多かったみたいだね」

 そういって、ボルドーは主婦たちやリアンの方を見る。アーニャ達と関わりが無さそうな主婦たちや男性が混じっていることは、想定していなかったようだ。

「布切れやらがたくさんあるけれど、ひょっとして、これは手芸の会だったりするのかい?」

 ボルドーの問いかけで、一瞬にして空気が凍り付き、誰がどう答えるべきか、と全員が目配せした。

 勿論、倫やアーニャはボルドーに穢れの日用の布ナプキンを作っていることは話していない。ふと、アリアと倫の目が合い、視線だけでそのことを聞かれ、倫はふるふると小さく首を横に振った。

 適当に誤魔化すべきなのか、それとも正直に話すべきなのかを数秒考えて、倫は腹を括って正直に話そうと決めると、ボルドーに顔を向ける。

「ボルドーさん、実は……」

 すると、それを遮るように、アーニャがボルドーの前に立った。

「父さん、私から説明するから、ちょっと向こうで話さない?」

 アーニャはボルドーからバスケットを受け取りながら、穏やかに言った。ボルドーは不思議そうな顔をして、娘の顔を見下ろした。

「それは構わないが、ここでは話せない事なのかい?」

「そういう訳じゃないけど、親子水入らずで話したいの。駄目?」

 微笑んでいたが、アーニャが緊張と覚悟がないまぜになったような複雑な表情をしていて、ボルドーは一瞬思案顔をすると、優しく答えた。

「……いや、駄目じゃないよ。わかった、向こうで話そう」

 アーニャは頷くと、受け取ったバスケットをアリアに手渡して、一瞬倫に目配せする。

「……うん」

 倫は、隣に居たリアンさえ聞き取りづらいほどの、小さな返事をして、リビングを去るアーニャの背中を見送った。

 親子がリビングから居なくなると、アリアは倫に駆けよって、心配そうに問いかけた。

「あの子、無理して笑って……かなり緊張していたけど、大丈夫なのかい?」

 その心配げな表情はさながら実の母親のようで、倫は笑みを零すと、安心させるように言った。

「アーニャは、大丈夫だよ」

 それだけ言うと、倫は、壁の向こうで自らの殻を破ろうとしているアーニャに、心の中でエールを送った。


 リビングを出てすぐの薄暗い廊下の突き当りに、アーニャとボルドーは立っていた。

「……」

「……」

 父を連れ出したはいいものの、いざ話すとなると、せりあがる緊張で、動悸が激しくなる。口が重たくてなかなか話せず、ついにアーニャは俯いてしまった。

(話したいのに、話さなきゃいけないのに、怖くて話せない……)

 緊張が全身を覆いつくしてしまっているような錯覚を覚え、固まっていると、ふと、頭上からボルドーの声がした。

「ゆっくりでいいから、話してみなさい。父さん、ずっと待ってるから」

 その声色は、いつだって包み込むように優しくて、どんな時でも安心できる、大好きな声だった。

 ボルドーの声を聞いた途端、緊張がすっとほぐれていき、アーニャはゆっくり顔を上げた。

「……父さん、私ね。今、リビングに居たみんなと一緒に、穢れの日に使う道具を作っているの」

 ボルドーは目を見開いた。

「父さんに内緒にしていたのは、どんな反応をされるか分からなくて、怖かったからなの。父さんの事を愛しているから、失望されたり、突き放されたりしたらって考えてしまって、怖くて言えなかったの」

 表情にはあまり出ていなかったが、ボルドーはやはり動揺している様子で、娘の話を聞いていた。数秒の静寂が降りて、ボルドーはなんと言えばいいか分からない様子で、絞り出すように言った。

「アーニャが何をしていたのはわかったが、でも、それが原因で、前につらい思いをしたじゃないか……」

 はっきりとは言わなかったが、その言葉が何を指しているのかすぐに分かって、アーニャは、過去の記憶が刃となって鋭く胸を突いた。

 だが、小さく首を横に振ると、笑みを浮かべた。

「事の発端は、リンが急に言い出した事が始まりなのだけれど、最初は話をされただけでもすごく怒ってしまって、当然大反対したわ。でも、計画が進んで、仲間が増えていくにつれて、前は思い浮かべるのも嫌だった穢れの日の事を、毎日考えるようになったの。不思議でしょ?」

 アーニャの笑顔から緊張は消えていて、穏やかで優しい、ボルドーによく似た彼女らしい笑みに変わっていた。

「穢れの日は、この世の中ではタブー中のタブーだけれど、そんな世界を変えようって、リンを主軸に、みんなで頑張っているの。だから、心配しないで」

「……そうか」

 全ての話を聞き終えたボルドーは、納得したように頷いた。

「私はね、アーニャもリンも、最近どこか様子が変だから、最初は、二人が何か問題を抱えていて、そのことをアリアに相談しているんじゃないかと思っていたんだ。今日も、お礼は理由の半分くらいで、様子を伺いに来たかったのが本音なんだよ。問題が無いなら、私はそれでいいんだ」

 そういって、ボルドーはアーニャの肩にそっと手を添えた。

「でもね、君が行こうとしている道は、きっと茨の道だ。また以前と同じように傷つくことがあるかもしれないよ。それでもいいのかい?」

 問いかけに、アーニャは笑みを深めると、肩に添えられた父の手に、自身の手を優しく重ねた。

「あの時と違って、私は一人じゃないもの。たとえ、また辛い目に遭って泣いたとしても、傍にはみんながいるから、私はきっと乗り越えられる」

 ひたすらにまっすぐで、強い信頼が感じられるアーニャの言葉に、ボルドーは静かに笑った。

「そんな風に思える友達と出会えたのは、人生にとって大きな財産だ。大事にしなさい。これから色々なことがあると思うけど、父さんも母さんも、アーニャを誇りに思っているよ」

 すると、アーニャは瞳に涙を浮かべて、何も言わずにボルドーに抱き着いた。ボルドーは優しく受け止めて、泣き笑いするアーニャの背中をそっと撫でた。


「……良かったねぇ」

 リビングから廊下を覗き込んでいた一同は、もらい泣きで瞳を潤ませながら、一部始終を見守っていた。特に、アリアは目頭を押さえて、ひたすらに涙を堪えていた。

「……やっぱり、大丈夫だった」

 ただ一人、倫だけはこうなることが分かっていたかのように、親子の抱擁を、優しい眼差しで眺めていた。


 その後、ボルドーは全員に礼を言って家に帰り、九人はリビングに戻ると、今後について話し合うことになった。

「ひとまず道具は完成したけれど、ここからどうするか、リンは考えているの?」

 アーニャの問いかけに、ううんと唸り声をあげながら、倫は答えた。

「あたしは、皆で考えたこの作り方を、色んな人に広めたいと思ってるんだけど、どう思う?」

 すると、リアンが首を横に振った。

「それは、あまり現実的ではないな。そもそもこれは、俺が作った魔法付与布で作られることを前提にしているから、ただの布では再現できるか保証できないぞ」

「うう、そっかぁ。市販の魔法付与布とかでも駄目なのかな?」

「市販のものでも似たようなものは作れるだろうが、これと同じクォリティに近づけるのは難しいだろう。魔法付与布の調合を広めるという手もあるが、リンが以前言っていたように、穢れの日に使う道具の依頼を受けてくれる内職魔術師がどれだけいるか、という点でも難しいな」

「んー……どうしよう……」

 頭を悩ませた倫は、腰かけた椅子の背もたれに体重を預ける。いつの間にか布ナプキンの完成がゴールになってしまっていて、そのあとの事はふんわりとした構想しか無かったのが、今更になって仇となってしまった。

 すると、アリアが口を挟んだ。

「つまり、折角こんないいものが作れたのに、作り方だけ教えたらまがいものが出来てしまうから、それが嫌だって話だろ?」

「まあ、簡単に言うとそうだね」

「だったら、これを商品として売っちまったらいいじゃないか」

「……え?」

 布ナプキンを作って、この世界で商品として販売する。それはあまりに発想にない事で、倫は、思わず困惑の声を漏らした。




 第一章 運命の坩堝 完

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