手に手を取って
5-1
ミンデルンにも本格的な冬が訪れ、昨日は初雪が降った。骨身に染みるような寒さが外を覆っていたが、昼時の小鹿亭の店内は、暖炉とひしめく客たちの熱で、少し汗ばむほど暑かった。
ふとドアベルが鳴って、チキンのシチューを運んでいる最中の倫は入口の方を見ると、元気な声で言った。
「いらっしゃいませー! ……ってあれ、リアン?」
入口の方を見ると、入口にはリアンが居た。リアンとアリアの家以外で会うのは、倫がアーニャ達を連れて説得しに行った時以来で、なんだか不思議な感覚だった。
それに、リアンは何故か嬉しそうに笑みを湛えていて、それも違和感を助長させた。
「カウンター、いいか?」
「勿論! てか、うち来るの珍しいね。相変わらず冒険者のお客さんばっかりだけど、大丈夫なの?」
「ああ、それはもう、気にならなくなったからいいんだ」
「そうなの?」
倫は小首を傾げる。ひとまずリ注文の品をテーブルに届けると、カウンター席に着くリアンの所にメニューと水を持って行った。
「はい、メニュー。今日のおすすめはチキンのシチューとスウェーガ風スパイスカレーだよ」
「どっちも美味そうだな。じゃあ……俺はチキンのシチューにするかな」
メニューをパラパラとめくるリアンの横顔を、倫はじっと見つめる。表情と声色は明るいが、なんだか顔色が悪いように見えて、思わず問いかけた。
「なんか、今日はいつもと違うね?」
すると、リアンは照れくさそうに笑った。
「わかるか? 実は、少し前に仕事の繁忙期のピークを越えたんだ。今までずっと深夜まで拘束されていたのが無くなって、その分を調合の時間に回せるから、それが何より嬉しくてな。以前よりもずっと手応えがあるものに仕上がったから、次の休みを楽しみにしていてくれ」
「ようやく繁忙期が終わったんだ、良かったじゃん」
嬉しそうに語るリアンに、倫は一瞬同じように喜びかけるが、よく見ると以前より目元の隈が濃くなったような気がして、ぴたりと笑顔を消す。
「なんか、繁忙期の時より顔色が悪い気がするけど、大丈夫?」
「そうか? まあ、特に具合は悪くないから大丈夫だろう」
「そうならいいんだけど、ちゃんと休まないと駄目だからね?」
「はは、大丈夫だよ」
心配性なんだな、とリアンは笑ったが、定期的に会う友人の頬がやつれたように見えたら、誰でも心配するに決まっている。
繁忙期が終わったのはリアンにとっていい事だろうが、それでセーブされていたリソースを、全てこの計画につぎ込んでしまうのではないかという一抹の不安が倫の胸に残った。
やがて休日がやってきて、いつものようにアリアの家に集合することになった。
リアンが持ってきた新しい魔法付与布で、主婦たち五人がお喋りしながら布ナプキンを作っている最中、倫はアリアに教えられながら、裁縫の勉強に励んでいた。
「いいね、前よりずっと上手くなったじゃないか。リンはやっぱりやれば出来る子なんだよ」
「えへへー、そうかなぁ~って、痛ぁ!」
上機嫌になったのも束の間、倫は思い切り針を指に突き刺して、子犬のような鋭い悲鳴がリビングに響く。
「こら、針持ってる時によそ見するんじゃないよ」
「ううう……」
泣きべそを掻く倫を見て、皆が笑っていると、隅で腕を組んで座っていたリアンが、ビクッと肩を揺らした。それに目ざとく気づいた倫は、笑いながら聞いた。
「あれ、リアン、もしかして今、寝てた?」
「……ん、何がだ?」
「いや、完全にさっきまで寝てた人の顔じゃん」
眠そうに細めた目を瞬かせながら、なおもとぼけようとするリアンが可笑しくて、倫は苦笑いを浮かべる。自分が寝ているのに気づかなかったのか、リアンは信じられないという顔で言った。
「本気か? 俺は今、本当に寝てたのか……?」
「絶対寝てたって。皆の笑い声にびっくりして、肩がビクッとなってたもん」
「む……少し気を抜いてしまったな」
気恥ずかしそうにしている様子のリアンに、そうじゃないんだけどな、と倫は苦笑いを深めると、アリアがこう言った。
「眠いなら、うちの客室でも貸してやるからちょっと寝てきなよ。多少はスッキリするよ?」
「ありがとう。だが、俺は大丈夫だから、気持ちだけ貰っておくよ」
アリアからの申し出を丁重に断ると、リアンはテーブルに転がる万年筆を手にして、また手帳と本に吸い込まれるように没頭し始めたので、倫以外の女性陣は、呆れた顔で見ていた。
「ありゃ、何言っても駄目だね」
「魔術師の人って、一度何かに熱中すると、皆こうなっちゃうわよねぇ」
「多分、自分で納得するかぶっ倒れない限り、てこでも止めないと思うよ」
アリア、シェリル、フランシスが口々に言う。どうやらこの世界での魔術師とは皆似たようなものらしく、倫は心配げな表情をリアンに向けた。
程なくして試作が出来上がり、前回の課題であった耐久性はきちんと調整され、以前のように一度洗っただけでぼろぼろになることは無くなった。
「洗いあがりも申し分ないね。これ、中々いいんじゃないかい?」
「いや、まだ少し、洗いあがりの肌触りが気になるな。何度使っても、まるで新品のような肌触りを目指すには、もう少し、何かが足りない……」
「リアンはこだわりが強いねぇ。いいことだけどさ」
「一つでも妥協を残すと、それが気になって仕方なくなるんだ。だから、修正できる部分があるのなら、きちんと修正しなければ。本当にあと一歩の所まで来ているから、明日一日あれば……」
そう独り言のように呟くと、リアンは再び自分の世界に入り込んでしまう。アリアは駄目だこれは、と手を上げるジェスチャーをして、皆はそれを苦笑しながら眺めていた。
その後、一旦お開きとなり、皆が帰り支度をする頃、リアンは手帳や本を乱雑にまとめて鞄に突っ込むと、ふらふらとリビングを出ていった。
いつもなら、皆に挨拶をしてから出ていく礼儀正しい男だ。それすら忘れてしまうほど疲れているのかと倫は心配になって、周りに尋ねてみた。
「ねぇ、本当に大丈夫かな?」
皆は目を合わせると、溜息を吐いた。
「まあ、あの調子じゃあ、大丈夫ではないだろうね」
「……あたし、リアンのこと家まで送り届けてくる!」
その一言に、倫は急いで荷物をまとめると、駆け足でリビングを出て行った。
この時リアンは、覚束ない足取りで帰路に着きながら、ぼんやりとした思考の海を泳いでいた。
(不思議だ。最近ろくに眠っていないのに、疲れたという感覚が無い。というか、それだけじゃなく色んな感覚が鈍って、その代わりに、思考が鋭くなっていくような、不思議な感覚がある)
視界が白んで狭まっていき、凍るように寒いはずの気温も、通り抜ける風も、厚い膜を一枚隔てているような、鈍い感覚だった。
その代わり、全てのエネルギーが思考に収束していき、今なら、何でも生み出せるのではないかという、全能感さえ覚えた。
(そうだ。こんなぼうっとしている場合じゃない。早く家に帰って……あれ、家はどっちだ?)
感覚が狭まっていくにつれて、自分の家がどこなのか、そもそも自分が今歩いているのか、それとも動きを止めているのかさえ分からなくなっていた。
まずい、と自覚した瞬間、急に身体がぐらついて、自分が転びかけているのに気づいた。ひゅっと胸が冷えて、反射的に手を突こうと腕を伸ばしかける。すると、突然誰かに左腕を力強く掴まれた。
「もう、心配して来てみたらこれだよ!」
「……リン?」
急に倫の声が耳に入ってきたと思ったら、その拍子に、今まで全身を覆っていた膜が破れたかのように、風と雑踏の音が鮮明に聞こえ、突き刺すような寒さが身体を襲い、思わず顔を歪めた。
倫は、転びかけていた身体を引き寄せると、脇の下に腕を滑り込ませて、背中に回して支えてくれた。
「ね、リアンの家ってどこ?」
問いかけられて、ゆっくり前を見る。気づけば家の近くまで来ていたようで、自宅の安アパートがすぐそこまで見えていた。
声がうまく出せなくて、震える指先でそこを指さすと、倫は分かってくれたようで、一度体勢を整えると、励ますように言った。
「わかった。連れてってあげるから、あとちょっと頑張って」
リアンは力なく頷くと、そこまでゆっくりと歩き始めた。
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