3-3
あれから数日が経った頃。倫は、眠そうな顔で、毎朝恒例の店の掃除をしていた。
「ふあ……ねっむ」
今日は窓から覗く天気が芳しくなく、気温も低いので、客足はどうだろうとぼんやり考える。
今まではこの世界に馴染むので精一杯で、季節など気にも留めていなかったが、ようやく、この国にもうすぐ冬が来るのだと実感できた。
何度も欠伸を浮かべながら、床を箒で掃いていると、ふと、厨房から灯りが漏れているのに気づいた。
ボルドーはまだ食卓にいるはずで、となると彼しかいないだろうと、倫は箒を壁に立てかけて、厨房へと入っていった。
「ニール、おはよ~」
声を掛けると、何やら悩んだ顔でコンロの前に立っていたニールが、こちらに顔を向けた。
「ああ、なんだお前か。よう」
「また一段と朝早いね。いつから来てたの?」
「一時間くらい前から」
「一時間前⁉ その時あたし、まだ寝てたんだけど」
「店長には許可貰ってるぞ」
「いや、別にそこは気にしてないけど。それ、何?」
倫が覗き込んだのは、小鍋でくつくつと煮える、チキンと根菜の煮込みだ。
とてもおいしそうな匂いだったが、メニューにはそんな料理は無かったはずと首を傾げていると、ニールは気合が入った表情で言った。
「これは、俺考案のパルマドーラ風煮込みだ。今日はこれを新しいメニューに入れてもらえるか、店長に見てもらう日なんだよ。認めてもらえれば、初めて俺が考えた料理が、店のメニューに並ぶんだ。そりゃ気合も入るだろ」
「ほぉ~! 凄いじゃん」
素直に褒めるが、ニールは全く聞いていないようで、味見をしながら、甘味がどうとか何かが足りないなどと、口の中でぶつぶつと呟いていた。
その真剣な横顔を見て、倫はふと、思いついてしまったことが、口から零れ落ちた。
「……ニールってさぁ、穢れの日についてどう思う?」
ぶはっ。真っ先に聞こえてきたのは、味見をしていたニールが盛大に吹き出した音だった。
「なっ……ゲホゲホ、おま、っ……ゴホ、お前……!」
「ちょっと、大丈夫⁉」
変な所に入ったのか、喋ろうとすると何度も咽るので、倫は慌てて背中を摩ろうとする。
すると、その手を振り払われ、真っ赤な顔で言われた。
「いきなり何言いだすんだお前! 仮にもなぁ、お前だって女なんだから、んなこと口にすんな、バカ!」
「ど、どうどう……落ち着いて~」
過剰な反応をされることは分かっていたが想像以上で、倫は子供に言い聞かせるように声を掛ける。
ニールも咄嗟に大きな声を出してしまったのを気にしたのか、少し落ち着くと、ばつが悪そうに顔を逸らした。
「大体、なんでそんな事聞くんだよ。タブーなんじゃねえのか」
「まあ、そうだけど。同世代の人がどう思っているのか、単純に知りたくてさ」
「なんで俺なんだよ、聞きたきゃその辺の客にでも聞けばいいだろ」
「いやぁ、お客さんはどんな人柄か分かんないしさ。でもニールだったら信頼してるし、聞いても平気かなって」
「……はぁ? 俺の事だって、なんにも知らないだろ」
気恥ずかしいセリフを真っすぐ言われて、不機嫌そうに照れるニールに、倫は納得いかない様子で身を乗り出した。
「そんなことない! 料理の腕はすごいし、態度はちょっとぶっきらぼうだけどちゃんと優しいし、お客さんにも好かれてて気遣いも出来るし、何よりボルドーさんとアーニャに信頼されてるから──ふがっ」
「お、ま、えなぁ、少し黙っとけ!」
突然の褒め殺しに耐えきれなくなったニールは、倫の顔を勢いよく掴んで強制的に止めさせる。
「ごみぇ、ごみぇん、だかや、はやしへ……」
うまく話せずにもごもごと口を動かす倫に、ニールは大きな溜息を吐くと、呆れた声色で言った。
「とにかく、誰に対しても、そんなことを聞いて回るのはやめろ。特に、アーニャにはな」
倫は不意を突かれて、目を丸くした。
「……なんで、アーニャは駄目なの?」
まさかここでアーニャの名前が出るとは思わず、倫はつい聞いてしまう。
すると、ニールの表情が、急速に陰っていった。そして、ぽつりと呟いた。
「……あいつには、もう傷ついてほしくないんだよ」
静かな声色と、思い出に耽るような遠い眼差しには、ニールの複雑な感情が色濃く映っていた。
「ニール、それって……」
「リンー!」
理由を聞こうと口を開いた瞬間、遠くからアーニャの声が聞こえてきて、倫は弾かれるように厨房の出口を見た。
「あ、なんかアーニャが呼んでるみたい」
「……おう」
ニールは気まずそうに呟いて、倫を一瞥する。
その胸の内に抱えているものは一体何なのか。倫は気になって仕方なかったが、アーニャに呼ばれてしまった以上、もう店の掃除に戻らなくてはならない。
「……あっ、ちょっと失礼」
「は?」
もののついでにと、倫はニールの隙を突いて、味見用に小皿に取られていた煮込みのチキンをつまみあげると、口に放り込んだ。
「あっ、てめ……!」
「ん~、うま! あ、でも辛味を入れたらもっと美味しいかも! んじゃね~」
そう言って怒られる前にさっさと退散していく倫の背中を見て、ニールは脱力した。
「……んだよ、あいつ。言いたい放題言いやがって」
はぁ、と息を吐くと、味見用の煮込まれた野菜に目をやって、黙って一口食べる。
「……確かに」
と、ニールは悔しそうに呟いた。
朝方の倫の予想は外れ、昼時には、ランチを求めた客足が通常よりも伸びていた。
騒がしい店内と慌ただしい厨房を忙しなく行き来する中、注文を取って厨房に戻ってきた倫を、ボルドーが焦った様子で呼び止めた。
「ああ、リン! 丁度良かった、ほうれん草が切れてしまったんだ。商店街であるだけ買ってきてくれないか?」
「あ、はーい! じゃあ行ってきます!」
倫は、ボルドーから貰った銀貨二枚とバスケットを握り締めると、足早に店を出た。
向かうのは、モディエナ商店街に店を開く馴染みの八百屋だ。
商店街は相変わらずの賑わいで、人の波をすり抜けていきながら、目当ての店を見つけると、弾んだ息のまま、元気よく言った。
「おばちゃん! ほうれん草あるだけちょうだい!」
店先に座って接客する顔馴染みのおばちゃんはまたかい、と笑ってバスケットに店頭の大量のほうれん草を全て詰めてくれる。
「いつもいっぱい買ってくれるから、おまけして今日は銀貨一枚でいいよ」
「わ、ありがとー! また買いに来るね!」
用事は済ませて、今度は急いで帰ろうと倫は踵を返す。
すると、隣の腸詰屋に、見たことがある人影が見えて、つい立ち止まってしまった。
「あ!」
「……あ」
腸詰屋の前には、魔法付与布を求めてドズリの工房を訪れた時、倫とアーニャを門前払いした、若い魔術師の姿があった。
向こうも覚えていたようで、お互い顔を見るなり声を上げてしまい、気まずい沈黙が下りる。
「あ、あの……もしかして覚えてる?」
倫はへらりと笑って、問いかけると、魔術師は目を合わせなかったが、低い声で答えた。
「ああ……まあ」
声色は力ないが、初めて顔を見た時よりも少し顔色が良くなっているように見えて、倫は勝手にほっとした。
すると、魔術師は何かに耐えかねるように顔を上げて、倫の目をまっすぐ見た。
「その……この前は悪かった。丁度繁忙期で地獄を見ていた時で、余裕が全く無かった時だったんだ。とはいえ、客である君にぶつけるべきじゃなかったと、今は反省している」
魔術師は胸に手を当てて、深々と頭を下げる。
往来の中で突然頭を下げられてしまい、倫は周りから刺すような視線を感じて、慌てて止めさせた。
「そ、そんな謝んなくていいよ、気にしてないから!」
「いや、だが……」
なお食い下がろうとするので、倫は困っていると、ふとアイデアが浮かんできて、手をぱちんと叩いた。
「あっ、いいこと思いついた。お兄さん、今日はお休みなんでしょ?」
「え? ああ、まあ……三週間ぶりの二連休を謳歌している所だが」
「わお。じゃあさ、あたしが働いている店に寄ってってよ。それでチャラにしてあげるからさ!」
サービスするよ、とウインクすると、魔術師は怪訝な顔をした。
「店……?」
思わぬ提案だったのか、魔術師は復唱すると、何故かハッと何かに気づいたような顔をした。
「い、いや……折角だが、俺は買い物の用事があるから」
「えー、いいじゃんちょっとくらい」
「いいや、その、誘ってくれるのはありがたいが、さすがにそういう店は……!」
「はあ?」
何を慌てているのか、突然しどろもどろになる魔術師に、倫は首を傾げる。
だが、すぐに何を勘違いしているか分かって、倫はつい声を荒げた。
「なっ……! ちょっと、なに勘違いしてんの! いかがわしい店じゃなくて、うちは普通の酒場だって!」
「いや、客引きはみんなそう言うぞ⁉」
「だーかーらー、違うってばもー‼」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます