2-3

 倫とアーニャが訪ねたのは、小鹿亭のある大通りから伸びる小道の先にある、住宅街の一軒家だった。

「アーニャ、顔やばいよ?」

 これから尋ねる予定の扉の前で、立ち尽くすアーニャの横顔を見て、倫は思わず呟いた。

「……えっ、そんなひどい顔しているかしら?」

アーニャの表情はこわばり、昨日は眠れていないのか、顔色は普段よりずっと悪く見えた。

「うん、けっこうね。いったん深呼吸しよっか」

 落ち着けるように諭しながら背中に触れると、アーニャの身体がわずかに震えていた。呼吸も少し浅く、この状況がかなりのストレスのようだ。

(まあ無理もないか。あの優しいアーニャが穢れの日の話をしただけであんなに怒るくらいだし、他の人に話したら、どんな反応するか分からないよね)

 だが、ここで立ち止まっていては何も始まらない。倫は一歩踏み出すと、ドアノッカーを手に取って、扉をノックした。

「大丈夫、一人じゃないよ。あたしがいるから」

 倫は冷たくなったアーニャの手を握って、勇気づけるように言う。真剣な表情の倫に、少し落ち着いたのか、アーニャはこわばった顔で小さく頷いた。

 すると、目の前の扉が勢いよく開いた。二人はハッとして扉の方を見ると、そこには。

「……あれ、あーにゃおねえちゃん?」

 扉の向こうに立っていたのは、暗いワインレッドの髪で、可愛らしい花柄のワンピースを着た、赤ら顔の小さな女の子だった。

「あらドロシー、こんにちは。お母さんいる?」

「ままいるよぉ。ままー、あーにゃおねえちゃんきたー!」

 子供のよく通る声でドロシーは叫ぶと、勢いよく奥に駆けていく。程なくすると、忙しない足音と共に、三十代半ばくらいの女性が、先ほどよりも小さい男の子を抱えてやってきた。その女性は、出迎えた小さな女の子と同じく、暗いワインレッドの髪の毛を後ろで結っていて、灰緑色のシンプルなワンピースを身に纏い、利発で勝気そうな表情を湛えていた。

「アーニャ! 久しぶり、元気してた……って、あら。その子は?」

 その女性は、アーニャの顔を見るなり、ハキハキと明るい口調で声を掛けたが、隣にいる倫に目を向けると、きょとんとした顔を向けた。

「ひ、久しぶりアリア。隣の子は、うちで先月から住み込みで働いているリンよ」

「初めまして、アリアさん! 倫です!」

 倫が元気よく挨拶すると、アリアはぴんと来たのか、表情を明るくした。

「ああ、あんたが例の新人さんだね? 話は聞いているよ。うちの野郎どもが、最近小鹿亭に新しく可愛い子が入ったって噂していたからね」

「野郎ども?」

 倫が問い掛けると、代わりにアーニャが答えた。

「アリアの旦那さんはね、探索ギルドに所属しているベテランの冒険者さんで、たくさんの部下を持っているのよ。探索が終わって王都に帰ってくると、いつも部下のみんなを連れて小鹿亭に来てくれるから、顔くらいはわかるんじゃないかしら?」

 アリアはにやにやと笑みを浮かべながら言った。

「気を付けなよ~? あんた、若い連中の注目の的みたいだから。……っと、こんな所で立ち話もなんだし、入んなよ」

「おじゃまします!」

 倫とアーニャは手招きするアリアのあとを付いていき、リビングに通された。そこは小さな子供がいるとは思えないほど綺麗に整えられていて、置かれた家具など、端々からアリアのこだわりが感じられた。そして、十代前半くらいの女の子と、先ほどアリアを呼んできてくれたドロシーが居て、どうやらお茶を持ってきていたところだった。

「エリー、久しぶり」

「あ、アーニャちゃん!」

 アーニャが声を掛けると、エリーと呼ばれた子は明るい顔を見せたが、隣に倫を見つけるやいなや、ちょっと恥ずかしそうに顎を引いた。

「隣の子は私の友達のリンよ、よろしくね」

「エリーちゃん、ドロシーちゃん、初めまして」

「は、初めまして……」

「はじめましてー!」

 恥ずかしそうに挨拶を返すエリーと、元気よく返事するドロシーに、倫はにこりと笑みを浮かべた。

「二人とも、向こうでウェインを見ていてくれる?」

 アリアはそういって、エリーに抱いていたウェインを預ける。エリーは小さく頷いて、ドロシーを連れて、廊下の奥へと消えていった。

「さて。まあ座りなよ」

 促されるまま二人はテーブルに付き、アリアはその正面に立って、ティーカップにお茶を注ぎながら、事もなげに言った。

「最近仕事の方はどうなの? ちゃんと休めてる?」

「もう、会うたびに聞くんだから。大丈夫よ」

 苦笑いを浮かべて、アーニャは返す。アリアは鼻で笑って、ティーカップをアーニャの前に置いた。

「そりゃ、オリーヴ……あんたの母さんに後のことを頼まれたんだから、心配もするさ」

 そういって、アリアはお茶を注ぎながら、倫の方を向く。

「リンは、アーニャのお母さんのことは聞いているのかい?」

「いや、聞いたことは……」

 口ごもるようにして、倫は言う。家に父親であるボルドーしか居ない訳は何かしらあるのだろうと思っていたが、不用意に聞いて傷つけてしまうことを恐れ、今までずっと聞けずにいたことだった。

 アーニャは倫に顔を向けて、少し悲しそうに笑った。

「ああ、確かに、リンには言っていなかったわね」

「うん、聞いたらいけないかなと思って……」

「そんな、いいのに。私のお母さんはね、元々病弱な人だったんだけど、私を産んだことで寝たきりになってしまって、お乳の出も悪かったから、ちょうど同じ時期に子供を産んだアリアが、私の乳母になってくれたのよ。それから数年後に母が亡くなってからは、本当のお母さんみたいに私を育ててくれたの」

「オリーヴはわたしの親友だったからね、乳母くらい喜んでやったよ。それに、わたしのお乳で育ったんだから、わたしにとってはアーニャも娘みたいなもんさ」

 アーニャは照れくさそうな笑みを浮かべる。倫はそれにつられて笑っていると、アリアは昔を懐かしむように呟いた。

「あ~あ、昔はあんなに小さくて、ボルドーにおぶられながら店に入り浸る連中にあやされていたのにねぇ。こんなに大きくなっちゃって。子供って大きくなるのがあっという間なんだから」

 自身のお茶を注ぎ終えると、アリアは椅子に腰かける。すると、先ほどの気さくな表情はどこかへ行き、真面目な顔で、二人をまっすぐ見つめた。

「まあ、昔話はここまでにしようか。それで、なにか大事な用があるんだろ? 話してみなよ」

「──えっ、なんで……」

 虚を突かれたアーニャが、動揺をにじませながら言うと、アリアは鼻で笑った。

「あんなに硬い顔して家にくりゃ、そりゃあ何かあると思うさ。ほら、遠慮せずに言ってみなよ」

 その言葉に、二人は顔を見合わせる。ちゃんと話を聞いてくれるかもしれないという淡い希望を胸に、倫は口を開いた。

「あの、私たち、アリアさんに話したいことがあって」

「うん、なんだい?」

「……それが、穢れの日のことについてなんですけど」

 すると、お茶を口に運ぼうとしていたアリアの手が、ぴたりと止まった。

「……ちょっと待っとくれよ。話したい事って、そんなものについてなのかい?」

 アリアは眉をひそめて、低い声で言った。あまり表には出さないようにしていたが、相当の嫌悪感があるようで、二人に向けられた眼差しが一気にきつくなった。

(やっぱり、相当嫌なことなんだ)

 倫は息を呑む。先程まであんなに親しみやすかったアリアに、こんなにきつい態度を取られるほど、穢れの日のことを話すのは、とてつもなく重いことなのだと改めて実感した。

「アリア、気持ちはとてもわかるけど、とても大事な話なの。お願い……」

 アーニャは縋るように、アリアの目をじっと見つめる。その横顔はこわごわとしていたが、とても真剣で、アーニャも自分と同じ思いなのだと、倫は嬉しくなった。

「大事って言われてもね」

 それでもアリアは突き放すように言うので、アーニャはぐっと顔を歪めて、顔を逸らしてしまう。

 ここで退いては駄目だと、倫はテーブルの下でぎゅっと拳を握り締めた。

「変な意味じゃなくて、私たち、真剣に穢れの日のことについて話したいんです。お願いします、聞いてくれませんか」

 アリアは、ティーカップをソーサーに置くと、俯いて小さく息を吐く。少しの間を置いて、何か考えている様子に見えた倫はほんの少しの希望を抱いたが、アリアは顔を上げると、淡々と問いかけた。

「何を血迷ったのかわからないけど、こんな馬鹿なことを聞くようにアーニャを唆したのは、あんたなのかい?」

 その言葉には明らかな拒絶を感じて、倫の表情が硬くなる。やはり耳を貸してもらえないのかと思った時、アーニャが勢いよく立ち上がって、大きな声で言った。

「それは違うわ……! 私がアリアの所へ行こうって言ったのよ、リンは何も悪くない!」

「そうだとしても、あんた……」

 アリアが言いつのろうとした時、彼女はハッとして、はじかれるように廊下の方を見た。

「……お母さん、どうしたの?」

 廊下から、エリーが心配そうにのぞき込んでいた。大きな声をしたのが気になったのか、おずおずとこちらを見ている。

アリアは立ち上がつてエリーの傍に行くと、宥めるように言った。

「大丈夫だよ、話はもう終わったから。だろ?」

 振り返って、アリアは二人を見る。その表情には帰ってくれと言わんばかりで、倫とアーニャは沈んだ顔を見合わせて、小さく頷いた。

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