1-5
外の掃除を終え、店に戻ると、テーブルと椅子が整然と並べられており、開店準備ももう少しで終わりそうだ。
倫は最後にトイレ掃除を済ませようと、店の奥にある化粧室に向かった。
まず女性用のトイレに入った時、ふと、今まで感じなかった、僅かな違和感を覚えた。
(あれ、そういえばここ、サニタリーボックスが無いんだ)
サニタリーボックスとは、生理用品用のゴミ箱のことで、元居た世界の女性用トイレには必ずあるものだ。
今までは仕事を覚えることで精いっぱいで、慣れない環境に身を置いたせいか生理も遅れ気味だったが、この世界に来て初めての生理が来て、ようやく、この店にそれが無いことに気づいた。
(じゃあ、使い終わった生理用品は持ち帰って捨てないといけないんだ)
そういった文化は無いのかと倫は納得しかけたが、ふとまた、新たな疑問が降って湧いた。
(……そういえば、この世界の女性は、生理の時ってどうしてるんだろう?)
思い出してみれば、この世界に来てすぐの時、服を買うためにアーニャに連れられた商店街では、倫の知るような生理用品は見かけなかった。
もっともその時は、他の珍しいものに目を奪われてばかりで、気づかなかったかもしれないと、倫は記憶を探りながら、想像を広げていく。
(サニタリーボックスが無いみたいだし、ナプキンみたいな使い捨てじゃないのかな。……この世界には魔法があるわけだし、ひょっとしたら、魔法を使って一瞬でなんとかしちゃうのかも⁉)
とはいえ、今まで見てきた魔法といえば、店内で起きた喧嘩で怒り狂った魔術師が放った火球や雷撃といった激しいものばかりなのだが、倫の妄想は止まらずにどんどんと膨らんでいく。
だが、暫くして、倫ははっとすると、手早くトイレ掃除を済ませて、駆け足で店に戻っていった。
(ていうか、アーニャに聞くのが一番手っ取り早いじゃん!)
ミンデルンに生まれ育ち、同じ年ごろの彼女なら、その辺の事情にも詳しいはずだ。倫はそう思って、店内で一人テーブルを拭いていたアーニャに、勢いのまま声を掛けた。
「アーニャ、ちょっといい?」
「ん、どうしたの?」
「あのね、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさぁ……この世界の──じゃなくて! 都会の女の子って、生理の時に何使うのっ?」
気が急くあまりうっかりぼろを出しかけたが、それを誤魔化すように早口で聞く。
一体なんと返ってくるのか、わくわくで胸を膨らませていたが、アーニャから返ってきたのは、思わぬ返答だった。
「……ごめんなさい、せいりってなぁに?」
「えっ?」
不思議そうな顔をしたアーニャから放たれた言葉に、倫は思わず聞き返してしまった。
自分の同じ年ごろのアーニャが、まさか“生理”という言葉を知らないとは夢にも思わず、一瞬思考が停止した。
(もしかして、この世界には生理って言葉がないのかな?)
よく考えれば、生理という言葉は月経の俗語だ。今までそう言った俗語もそれなりに通じてきたから気にしていなかったが、ひょっとしたらこの世界には別の言い方があるのかもしれないと、倫は気を取り直した。
「えっと、月経って言った方が分かりやすいのかな? 女の子がある程度の年頃になると、血が──」
「ちょっと待って‼」
突然、耳をつんざくような怒声が、二人以外誰も居ない店内に響き渡る。
倫は驚いてびくりと肩を跳ねさせて、声の主であるアーニャを見た。
アーニャは、普段はとても優しく穏やかな女性だが、この時は、真っ赤になった顔を強く歪めて、まるでとてつもなく汚らわしいものかのような眼差しで、倫を見ていた。
「ア、アーニャ……?」
初めて見るアーニャの拒絶と嫌悪の感情に、倫は激しくうろたえる。
アーニャは速足で倫の傍に駆け寄ると、周りを見渡しながら、小声で叱りつけた。
「あなた、何言ってるの! そんな恥ずかしい事、大声で話さないで……!」
「恥ずかしい事……?」
小さな声で聞き返すと、アーニャはぐっと何かをこらえるような顔をして、倫に諭すように、声を潜めて言った。
「──あのね、リンがどんな風に教えられたかはわからないけれど、“穢れの日”のことを、そんな簡単に口にしちゃ駄目なのよ!」
「けがれ、のひ……?」
倫はその言葉の意味がすぐに理解が出来ず、口の中で呟いた。
アーニャはその言葉を口にするのが余程憚られるようで、眉をひそめて、厳しい顔をしていた。
だが、脱力するように溜息を吐くと、アーニャは申し訳なさそうに言った。
「……急に怒ってごめんなさい。リンはただ知らなかっただけなのよね。でも、お願いだから人前でその話をするのは、もうやめてちょうだい」
「……」
倫は頭の中が、“穢れの日”という言葉でいっぱいで、アーニャの慰めが、一切耳に入っていなかった。
穢れの日とはなんだ。いや、その言葉がさすものはわかる。だが、そんな風に言われてしまう意味が分からない。
この世界では、生理は、その言葉を口に出すだけで、アーニャが見せたような、酷い嫌悪を覚えられてしまうのだろうか。
疑問が黒い靄となって胸に降り、息が苦しくなる。だが、本来しようとしていた質問を聞かないわけにもいかず、倫は恐る恐る口を開いた。
「じゃ、じゃあさ……その、日になった時って、皆どうしてるの? 何か便利な道具があったりするの?」
すると、アーニャは怪訝な顔をした。
「ないわよ、そんなもの」
「……え」
突き放すように放たれたその言葉に、倫は、足元がガラガラと崩れ去っていくような錯覚を覚えた。
この夢物語のような世界には、当たり前のように魔法があって、夢や富を追う冒険者が沢山いるというのに、生理用品がない。
更に、生理のことを“穢れの日”と呼んで、皆がそれを忌み嫌っている。
(何、それ……)
絶望が全身を覆っていき、呆然とした倫は、目の前が真っ暗になるのを感じた。
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