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朝食を済ませると、倫は自室に戻ってウェイトレスの制服に手早く着替えた。
白のオフショルダーと赤のロングスカートを黒のコルセットで引き締めたデザインは、倫もけっこう気に入っていた。
「よし、準備万端!」
倫は身支度を終えると、部屋を出て階段を下り、まっすぐ伸びる廊下をそのまま突き進むと、スイングドアの向こうに、趣ある木造の酒場が広がっていた。
これが、倫の職場である酒場『小鹿亭』だ。
小鹿亭はボルドーでもう五代目になる老舗の酒場で、王都ミンデルンの中ではかなりの有名店らしい。
そう言われるだけあって、確かに開店から閉店まで大忙しで、客層も地元の住人だけでなく、新人らしき若い冒険者からもうすでに引退した老人の元冒険者まで様々だ。
小鹿亭は、命を賭して様々なものを追い求める冒険者の憩いの場所でもあるが、同時に情報交換や仕事斡旋の場でもあるようだった。
ベテランの冒険者が、若い冒険者に声を掛けて困ったことがないか聞いたり、簡単な仕事を紹介してみたり、逆に若い冒険者がベテラン冒険者に声を掛けて、仕事を貰えないか打診したりと、そういった意味でも、酒場は無くてはならない場所のようだ。
ただ、それを差し引いたとしても、こうも客足が途切れないのは、何代も続く老舗なのもあるだろうが、最大の理由はボルドーの人徳なのだろうと、倫は思っていた。
倫はまだ知り合って日が浅いが、カウンターに立って冒険者に親身に接し、時には優しく、時には厳しく、客を家族のように温かく迎える姿は、尊敬されて当たり前だと思っているし、みんなに好かれているボルドーのことが、倫も大好きだった。
「ふう、よ~し!」
朝の日課である床掃除を終えた倫は、にじむ汗を手の甲で拭った。
長年の歴史を思わせる焦げ茶色のフローリングはぴかぴかに磨かれて、倫は誇らしげな笑みを口元に浮かべる。
見渡すために振り返ると、そこにはボルドーの城である広いバーカウンターがある。焦げ茶色の長いカウンターの向こうの棚には、色とりどりの酒の瓶が所狭しに並べられている。
瓶のラベルに書かれた言語は形が様々で、色々な国から持ち込まれていることは分かるが、この国の言語の読み書きすらまともに出来ていない倫には、なんと書いてあるかさっぱり分からなかった。
(そもそも、読み書きは出来ないのに、なんで言葉は聞き取れるのかが謎なんだけど)
倫の耳には、彼らの言葉が日本語に聞こえているが、それが何故なのか考えた所で、結局は自分が何故この世界に来たのか、という最大の謎に直面してしまうので、それ以上深く考えたことはなかった。
「さて、と」
倫は壁に立て掛けていた箒を手にすると、ドアベルを鳴らして店の外に出る。
一歩足を踏み出せば、そこに広がるのは、灰色の石畳と石造りの建物だ。
もう少し早い時間なら、大通りの先にある魔法研究所に出勤する魔術師達の奇抜なファッションショー──と倫が勝手に呼んでいる──が間近で見られたのだが、今日は近所の住人達や斡旋所に向かう若い冒険者たちの姿がちらほらと見られるばかりだった。
倫が店の前の掃き掃除を始めようとした矢先、通りの一つの人影が、他の場所ではなく、小鹿亭にまっすぐ向かっているのに気づいた。
その姿には見覚えがあり、倫は箒を掛けながら、近づいてくる人影に声を掛けた。
「ニール、おはよう!」
「おう。相っ変わらず、朝から無駄に元気だな」
ニールと呼ばれた金髪の青年は、倫を一瞥すると、ぶっきらぼうに言った。
ニールは、小鹿亭で料理の修行をしている若き料理人だ。
年代は倫やアーニャと同じくらいで、実家が有名な大衆向けのレストランらしく、十歳の頃からこの小鹿亭に修行に来ているようだ。
灰色がかった青の瞳の眼光はきつく、あまり表情が無い仏頂面で一見怖い印象を受けるが、これがただの真顔なのを倫は知っていたので、気さくに返した。
「無駄に、は余計だっての。ていうか、まだ出勤時間じゃないのに、来るの早くない?」
「別にいいだろ。今日はちょっとやることがあんだよ」
ニールは金髪をがしがしと掻いて、面倒くさそうに返答する。
すると、二人のやりとりの一部始終を見ていたらしき男が、道の反対側から声を掛けてきた。
「おいニール、朝からなにリンちゃんといちゃついてんだよ!」
倫とニールはその声に振り返る。その男はお調子者で有名な中堅の冒険者で、周りにいた近所の住人も、くすくすと微笑ましげに笑みを浮かべていた。
ニールはあからさまに嫌そうな顔をして、倫を無遠慮に指さすと、男に向かって声を張り上げた。
「はぁ? こいつといちゃつくくらいなら、あんたといちゃついた方がマシだよ!」
「そーですよ、あたしだってニールといちゃいちゃするくらいなら、この箒といちゃついてた方がマシです!」
倫も続けて言えば、冒険者の男は豪快に笑って「すまんすまん!」と言って正門に向かっていった。
「ったく……あのおっさん、いっつも好き勝手言いやがって。馬鹿言う暇あるならツケ払えっての」
「まあまあ、冗談言うのが好きな人だから。確かにデリカシーは無いけど」
「多分死んでも治らねえな。……っと、もう行かねえと。おい、掃除サボんなよ」
ニールはそう言い捨てると、店に入っていく。
倫はそんな態度のニールに特に怒ることも無く、にやりと笑みを浮かべて黙って見送ると、店の扉を薄く開けて、そこからちらりと顔を覗かせた。
「あら、ニールおはよう。今日は早いのね」
店内では、倫と同じウェイトレスの姿をしたアーニャが、掃除の為に端に寄せられたテーブルを元の位置に運んでいる最中だった。
すると、ニールの表情がみるみる変わっていった。
「あ……ああ。おはよう」
先ほどまで見せていたような態度とは打って変わって、ニールは困ったような顔でぎこちなく挨拶を返すので、倫はにやけた笑みを更に深めた。
アーニャとニールは昔から家族ぐるみで仲良くしていた幼馴染らしく、小鹿亭に修行に来ているのも、その縁があってのことのようだ。
「そうだ、お父さんは買い出しに出かけるから、先に仕込みの準備をしてほしいって言ってたわよ」
「そうか、わかった。……テーブル運ぶの、手伝う」
「ありがとう。でも、もうすぐ終わるから大丈夫よ。ニールは仕込みの方を……あら」
言いかけた言葉を遮るように、ニールはアーニャが持ち上げていたテーブルを取り上げて、運び始める。何も言わずにずんずんとテーブルを運んでいく背中を見て、アーニャは柔らかく笑いかけた。
「ありがとう、ニール」
「……別に」
ぶっきらぼうに返すが、ニールの声色には、倫に向けた時の刺々しさはなく、むしろ照れを隠しているような声色だった。
「……ふふっ」
一連の流れを見ていた倫は、あまりの微笑ましさに思わず笑みを零すと、それを耳聡く聞いたニールが、はっとした顔でこちらを見た。
「おまっ……おい、馬鹿! サボんなっつっただろうが!」
倫がにやけ面を覗かせていたのを見て、全て見られたと悟ったのか、ニールは顔を赤くして怒鳴り声をあげた。
「いひひ、すんませ~ん」
「えっ、急にそんなに怒って、どうしたの?」
「あっ、いや……あいつが……っておい、逃げんな、コラ!」
「いやー、あたしには外の掃き掃除って大事な仕事があるから!」
倫は逃げるように店の扉を閉めると、壁越しに感じるニールの怒気を無視して、にこにこと笑みを浮かべながら掃き掃除に戻った。
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