第3話 三宮のロブスター料理



 神戸・三宮──。

 夕方。大通りに面したビルから出てきた俺は、家に携帯電話をかけた。

「うん、今日はこっちで食べて帰るから。それじゃ」

 簡単に用件を伝えて電話を切り、ビルの看板を見上げる。

〈グループSSS〉。

 一〇年ほど前まで俺が務めていた会社だ。以前は毎週一回、ここに通っていたのだが、今はフリーの身だ。それでもたまにこうして仕事は受ける。

 今日は仕事の打ち合わせだった。大きな仕事がひとつ、まとまりそうだ。

 三宮も久しぶりだ。独身時代は、月に一度ぐらい、帰りに三宮の地下街にあるロブスター料理の店で食事をするのが楽しみだった。

 あの店のロブスターのコースは美味かった。普通の食事よりちょっと高い程度のリーズナブルな値段で、贅沢な気分が満喫できたものだ。婚約していた頃、妻といっしょに行ったこともあったっけな。

 震災の後、気がつくとあの店がなくなっていたのはショックだった。三宮に来る楽しみの三分の一ぐらいが失われた気がした。残りの三分の二は本屋と古書店だ。

 三宮にはたくさんのレストランがあるが、いまだにあの店のロブスターを上回る料理には出会えていない。

 そうだ、今日はロブスターを食おう。そんな気分だ。

 俺の胃が言っている。今日はロブスターの日だと。

 仕事がまとまった記念に、ちょっと贅沢したってかまうまい。


 数分後、俺は新神戸駅に近いビルの中にある高級伊勢海老料理の店の前に立っていた。

 サンプルの並ぶウィンドウ。そのガラスの表面には、俺のしかめっ面が映っている。

 高い。

 あの店よりかなり高いぞ。

 い、いや、ひるむな。今日はロブスターを食べると決めたんだ。

 俺は決心し、店内に入った。「一名です」と店員に告げる。店員は店の奥へ案内してくれた。内装は和風で、かなりリッチで上品である。


 ん?


 俺はおかしなことに気がついた。

 なぜ俺以外に客がいない?

 周囲の席はすべて空席だ。そりゃあ夕食にはやや早い時刻ではあるが……それにしても、こんなに客がいないっておかしいんじゃないか?

 悪い予感がしてきた。

 しかし、ここまで来て引き返すのも変だし……。

 俺は席に着き、豪華なメニューを見た。やはり高い。いちばん安いコースでも六〇〇〇円か……。

 どうする? これでハズレだったら目も当てられないぞ。

 しかし、ここまで来て敵前逃亡もみっともない。いっそ安い一品料理(それでもけっこう高いが)に逃げるか? それなら被害も少なくて済む。

 いや、だめだ。今日はロブスターを食うと決めたんだ!

 だいたい、こんな高級な店で、不味いものが出るわけがないじゃないか。コースを頼めば、そこそこ楽しめることは保証されているはずだ。

 勇気を出すんだ!

 俺は決心し、店員に告げた。

「この、梅コースというのをお願いします」


 十数分後――

 コース料理のひとつ、伊勢海老のグラタンを食べながら、俺はしょんぼりしていた。

 不味くはない。不味くはないが……。

 普通だ。

「これは」というものを感じさせない、特徴のない味。ときめきがない。

 六〇〇〇円に見合う味じゃない。

 失敗したなあ……。

 昔、ある雑誌の編集長が言っていた言葉を思い出す。

「高くて美味いのは当たり前。高くて普通なら不味いのと同じ。安くて美味いのが本当に美味い料理だよ」

 まったくその通りだ。

 見栄を張ってこんな高級な店に入るんじゃなかった。これが六〇〇〇円かと思うと、情けなくなってくる。

 高級料理というものに幻想を抱いていたんだ。味が値段に正比例すると考えるのは間違いだ。六〇〇〇円のコース料理が二〇〇〇円の料理の三倍美味いわけじゃないんだ。差し引き四〇〇〇円はドブに捨てたようなものだ。

 せめてもの救いは、味に特徴がなくて記憶に残らないということか。こんな失敗をした記憶も、じきに薄れて消えてしまうだろう。そうだ、こんなつまらない店に入ってしまった事実は、俺の人生から抹消してしまおう。

 店員が味噌汁を持ってきた。伊勢海老の頭がまるごと入っている。見た目は豪華そうだ。

 店員が去ると、俺は味噌汁をひと口すすった。

 とたんに愕然となった。


 な……!?

 何だこの味噌汁は!?


 辛い!


 いや、味噌汁は辛いものだが、これは明らかにそんな辛さじゃない! 異常だ!

 待て待て、舌の錯覚かもしれない。もう一度、確認してみよう。

 俺はもうひと口すすった。

 やっぱり辛い。味噌の辛さじゃない。塩の辛さだ。まるで塩を間違って大量にぶちこんだようだ。

 これは健康に悪い。いや、それ以前に舌が受けつけない!

 こんなのは飲めない!

 これでは伊勢海老がかわいそうだ!

 味噌汁の椀の中から見上げている伊勢海老の頭。それを見て俺は泣きそうな気分になった。お前は何のために死んだんだ! こんな不味い味噌汁になるためか!?

 ああ、この味噌汁からは、伊勢海老の呪詛の声が聞こえてきそうだ!

 すまない! 料理は決して残さない主義の俺だが、お前だけは残す! お前の死を無駄にしてしまう! だが、飲めないんだ! ひどい料理人に当たってしまったことを、不運と思ってあきらめてくれ!

「すみません」俺は店員を呼んだ。「これ、下げてください」

 すると店員は「はあ……?」と不思議そうな顔をした。俺の言っていることが分からないかのようだ。

「飲めないんです。下げてください」

 店員は首をかしげながらも、味噌汁を持って立ち去った。こんなことはあまりないのかもしれない。俺だって、店で料理を突き返すなんて、生まれて初めての体験だ。

 しかしどうしよう。記憶に強烈に焼きついてしまったぞ! あの常識を絶したひどさは忘れようがない。

 あんな不味い味噌汁を口にしてしまった体験が、これから一生、俺につきまとうというのか!?

 深い後悔に苛まれていると、支配人らしい中年男性が近づいてきた。

「失礼ですが……」

「はい?」

「なぜ味噌汁を飲まれなかったのでしょうか?」

「はあ?」

 支配人は穏やかな口調で、しかし真剣な表情をしていた。俺はちょっとたじろいだ。まるで「返答しだいではただでは済まさんぞ」という雰囲気だ。

「うちの料理人が申しておるのです。『この味噌汁のどこが気に入らなかったのか訊いてこい』と」

 そんなことも分からんのか!?

「辛いんですよ。辛くて飲めません」

「ほう、辛い……お客様のお口には合わなかったということですか?」

「そうじゃなくて、客観的に見て辛いんですよ。ひと口飲んでみれば分かります」

「そうですか。なるほど」

 支配人も不思議そうに首をかしげながら立ち去った。俺はトワイライト・ゾーンに迷いこんだような感覚を味わっていた。

 何だいったい?

 辛いことぐらい、口をつけてみれば分かるはずだろう?

 こいつらは、あのひどさが分からないほど味覚音痴なのか? それとも自分たちでは味見をしないのか? どっちにしても、理解できない話だ。

 不条理だ。


 数分後。

 店員がまた味噌汁を持ってした。

「お味噌汁、作り直して参りました」

 誰がそんなこと頼んだーっ!?

 俺は怒りを爆発させそうになったが、それでも恐る恐る、味噌汁に口をつけた。

 とたんに、また泣きそうになる。

 辛くはなくなったが……。

 薄い。

 明らかに薄い。伊勢海老の味が水臭くなっている。

 間違いない。これはさっきの味噌汁をお湯で薄めただけだ! 

 馬鹿にしている!

「下げてください」

「はあ……」

 店員がまだ突っ立っているので、俺はややきつい口調で繰り返した。

「こんなのは飲めません。下げてください」

 店員は味噌汁を持って立ち去った。だが、店の奥に姿を消すことはなく、厨房の入り口のところで、支配人と何かひそひそ話している。支配人と店員は、俺のことを疑わしげに見つめていた。

 何だあの視線は!?

 まるでこっちが悪いことをしたみたいじゃないか!? もしかしてクレーマーと思われてるのか!?

 違う! 俺はただ味噌汁が不味かったと言ってるだけなんだ!

 六〇〇〇円も払って、記憶に焼きつくほど不味い味噌汁を飲まされたうえ、なぜこんな肩身の狭い思いをしなくてはならんのだ!?

 ああ、そうか。この店に客がいない理由がようやく納得できた。

 こんな店、一度来たら、二度と来たくないからな。

 店に入るのは、俺のような何も知らない一見の客だけなんだろう。

 これではじきに潰れるに違いない。

 同情はしないぞ。いい気味だ。料理を馬鹿にした罰だ。伊勢海老の呪いを受けるがいい。


 俺はレジで精算した。本当は金も払いたくないのだが、さすがにそうもいかない。クレーマーと思われたくはないからだ。

 これが泣き寝入りというやつか。

 俺は肩を落として店を出た。コースの他の品は食えたから、いちおう腹はふくれたが、ちっとも幸せな気分にはなれない。

 あれに六〇〇〇円か。

 六〇〇〇円も払って、こんな不快な思いだけが残るとは。分不相応に高い料理を食おうとした報いなのか。

 俺にはやはり、安い料理の方が似合っているのかもしれない。



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