04 冗談にも嬉しくない

「……ふむ」

 その執務室は、玉座の間を除いては、ティルドがこれまでに入ったことのあるどんな部屋よりも広く豪華だった。使用人に案内されて部屋に入った彼は、言い知れぬ不安に押しつぶされたり魔術師その人へ視線を向ける前に、その見事さに感心してしまったものだ。

 だがそこで、拵えのいい重厚な木の卓の向こうから聞こえた呟きが、彼の意識を現実に戻す。

 壁に掛けられた絵画や書で埋め尽くされる棚に口をあんぐり開けるよりも、重要事項が彼の前にあるのではないか。――どんな事項だかはさっぱり見当がつかなくとも。

「ティルド・ムールだな」

「は、はい」

 屋内であるからしてフードをかぶっているようなことはないが、屋内であるにもかかわらず、黒いローブはいつもの通りだった。

 しかしいっそのこと、フードをかぶっていてもらった方がよい、とティルドは思う。

 四十歳の半ばを過ぎたように見える――魔術師リートの外見など、当てにならないとは言うが――エイファム・ローデンは、明るい金の髪に似合わぬ暗い瞳で少年を見ている。この落差を見せられるくらいなら、フードの影から暗い目だけを見せられていた方がましだ、と思ったのだ。

 普段は、よくも悪くも「生意気な小僧」と周囲に見られている少年も、街で王の次に力を持つとされる男の前に立てば、「単なる中年のおっさんのくせに」という感想は抱けない。何しろ、相手は権力者であるのみならず、魔術師であるのだ!

(陰口なんか思い浮かべて、それを読まれてみろ)

(蟇か鼠にでもされちまうかも)

 魔術師の多くから見れば、ティルドが考えるようなこの手の思考は理不尽なものだ。魔術師が全員、冒険歌で悪役を務めさせられるような大悪党である訳はない。残念なことに「決してそんな悪い人間はいない」とは言えなかったものの、魔術師が百人いれば、その内の九十八人に対しては全く謂われなき中傷だ。

 だが魔術師についてろくに知らず、どちらかと言えば避けて生きていきたい一般大衆のひとりであるティルド少年としては、この状況は冗談にも嬉しくない。もし彼が少しばかり魔術師について知っていたとしても、ローデンという名の宮廷術師が百人中の残りふたりに入らないと言う確証は持てず、やはり嬉しく思うことはなかっただろう。

「ふむ」

 ローデンはじろじろと彼を見た。

「そのように、緊張をしなくともよい」

「はあ、いや、その」

 そう言われてはいそうですかと楽にできるものでもない。ティルドは戸惑った。

 いったい何を言いつけられるのであろうか。レーン小隊長がほのめかした配置換えだとしても、宮廷魔術師が一兵士を必要とするとは思えない。友人カマリは、ローデンがこのところ訓練でずっとティルドを見ていたと言っていたが、まさか本当に、彼を小姓にしようとか、にしようとか、考えている訳でもあるまい。

「あの、閣下セラン

 ローデンがなかなか何も言おうとしないので、思い切ってティルドは声を出した。

「いったい、何事なんですか。俺みたいな下っ端を呼び出すってのは」

「下っ端か。面白い言い方をするのだな」

 不意にローデンは笑った。ティルドは目をしばたたく。この魔術師の笑顔など見たのははじめてであって、だがそれはティルドの緊張や不安を解く契機になるどころか、それらは却って増した。

「俺なんか、下っ端です。訓練と警備のほかにやることと言ったら、せいぜい小隊長の雑用くらい。魔術師閣下セラン・リートのお声がかかるようなことなんか、間違ってもやってないと思うんですが」

「そうだな」

 否定の言葉でも返ってくるかと思えば、ローデンはうなずいた。

「確かにお前は、何もしていない」

「なら、何で」

「お前は、どこまで知っている?」

「はあ?」

 意味の判らない問いに、ティルドはまた目をぱちくりとさせた。

「どこって、何が」

 魔術師の片眉が上げられた。

「……でありますか」

 よろしい、というようにうなずかれれば少しむっとした。だが相手はお貴族様で宮廷魔術師様だ。彼のような平民、しかも両親を亡くして、仕方なく彼を養育していた親戚が成人とともに放り出すような厄介者ラゲンド、食うために軍に入ったような貧乏人には、公爵閣下など雲の上の存在であることは確かだ。

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