スプリング・ロンド
みなづきあまね
スプリング・ロンド
休み明け、久々の早起きに深夜まで遊んでいた体はだるさを残していた。あと数分で会議が始まるが、まだ全員着席する様子はなかった。時計の秒針をぼうっと眺めていると、うっすらと花のような香りが鼻を掠めた。ふと左を見ると、彼女が俺の隣に座った。暖かい気候に合わせて七分丈の紺色の春ニットと、うっすらと素足が透けた黒ストッキングに千鳥格子の冬物のスカートを合わせていた。まだ寒さの名残が見えた。
会議が始まり、資料に目を通していく。大勢の人が話を聞いている中、一枚の紙に自分の新しい仕事分担がさらっと記載されており、思わず隣の彼女を見た。この間まで彼女と一緒にやっていた仕事だったが、彼女はそこから外れたため、俺だけ引継ぎで残されたのだろう。数秒後に彼女は俺の視線に気が付き、小首を傾げると、俺が指をさす箇所を見て笑いをかみ殺していた。しばらく思案していたかと思うと、何かをペンで書き込み、俺に自分の紙をすっと見せてきた。
「さも当たり前のように書いてありますね、笑。」
そう小さな字で書いてあった。俺は小さく頷いた。結構面倒な仕事なんだよなあ。
会議が終わり、自分の席に戻って仕事を再開した。しばらくすると「あの・・・」と後ろから小さな声が聞こえた。振り向くよりも早く、彼女が俺の右隣にしゃがんで俺を見上げた。困ったような顔で、目元が心許なげだった。
「気づいちゃったんです・・・会議の時に。先週末までに提出しなくちゃいけなかったデータ、私たちだけ入れてなくないですか?」
言われると同時に俺はしまった、と思った。先週末に行ったミーティングの要項を自分も入れていないことに気が付いたのだった。彼女はそれに気づき、急いで作成したようで、保存した際に俺の名前がないのに気づいたようだった。
「どうします?さっき上司同士が話しているのを聞いちゃったんですけど、〆切に間に合わなかったものはもう見ないって。データだけ入れておいてしらばっくれるか、はたまた様子を見て謝罪するか・・・嫌だなあ。」
彼女は不安げな目で俺を見上げていたが、立ち上がって溜息をついた。俺はどこに必要な資料があるかを手探りしつつ色々と考えたが、自分も一度溜息をつき、
「行くときは、一緒に。」
と伝えた。そうしましょう、と彼女は苦笑しながら同意し、自分の席に戻って行った。
しかし、その数分後、彼女はまたちょこちょこと俺の所へ歩いてきた。そしてひそひそとした声で俺に打ち明けた。
「あの、抜け駆けしちゃいました。」
「え?」
「なんか、さっき相談しに行ったら、なぜか根拠のない勇気が湧いてきて、すぐ上司に謝りに行っちゃったんです。よくわからないけど。」
「えー・・・」
「なので頑張ってくださいね!」
彼女はそう言うと自席に戻って行った。困った顔をしたと思ったら、ちょっと興奮気味に抜け駆けしたとか言い出し、俺を半ばからかった状態で放置していく。あとには途方に暮れた俺だけが残された。数時間後、遅ればせながらデータを出し、謝りに行った俺の近くにいた彼女は、こちらを見ながらニヤニヤしていた。全く・・・。
週末ということもあり、大勢の人がいつもより早めに帰宅し始めた。年齢の近い同僚たちもお互いに声を掛け合い、これから一緒に帰るような様子だった。俺は特に予定はなかったが、斜め前の同期もそろそろ帰るということで、なんとなく帰り支度を始めていた。彼女はまだパソコンに向かっていたが、隣の女性が帰るというので挨拶を交わしていた。
その他のメンバーが俺らと同時にぞろぞろとオフィスを後にしたが、彼女はいなかった。下の階に降り、にぎやかな団体を後ろに、同期と一緒に世間話をしていた。ロードバイクで通勤している彼の支度を待っていると、同僚たちに追いついた彼女が現れた。彼女は同期のロードバイクを見ると、不思議そうに彼に話しかけた。
「あれ?いつのまにか自転車通勤?」
「変えたんですよ。暖かくなってきたし、案外さらっと申請もできたので。」
「何分くらい?」
「40分くらいですかね。」
「え!そんなにかかるの!」
そして彼女は鞄からパスケースを出すと俺よりも先にタイムカードを切り、外に出ようとしていた。その時、建物の外に誰か女性二人が立っていた。
「あれ、誰か知ってる?」
「うーん、分からない。けど、ここの関係者だよね?こっち見てるし。」
何人かがそんな話をしていると、俺の前にいた彼女が歓声を上げて走り出した。
「会いたかったー!」
人目も憚らず彼女はその女性たちに駆け寄ると、そのうちの一人に思いきり抱きついた。勢いあまる中、受け止めた女性は軽々とそのまま彼女を持ち上げると、くるくる回った。
「待って、目が回るから、降ろして!」
そう無邪気に笑う彼女の声が聞こえる。つい最近咲き始めた桜の木の下、抱きしめられた彼女の足は地から浮き、グレーのパンプスを履いた足をちょっと曲げていた。春らしいトレンチコートが風にはためいた。その光景に俺は目を奪われた。まだ明るい外に桜の薄ピンク色と、彼女の服の色、そして何より楽しそうな、絵になる光景だった。俺はそんな彼女に目を留めたまま、隣にいる同期に聞いた。
「誰か分かる?」
「いや、知らないですね。」
同期も知らない人だった。そんな俺らの知らない誰かとの再会を喜ぶ彼女を、他の和気藹々と話して退勤した同僚たちは置いていった。俺たちも待つ理由もなかったので、ゆっくりと駅の方へと歩き始めた。
しばらくするとカツカツとヒールで走る音が聞こえ、俺の隣で歩いていた同期の隣に彼女が追いついた。肩で息をしながら同期の腕をぽんぽんと叩いた。
「待って!おいてかないで!」
「あ、すいません。待ってとも言われなかったので。」
「ちょっと走っただけで疲れた・・・。」
「それって運動不足すぎません?」
彼女は息を切らしたまま、そんなやりとりを同期とすると、彼のロードバイクのハンドルに手を添えて、息を整え始めた。
「かもしれない・・・さっきの、前の部署の人なんです。同期で。」
「ああ、そうだったんですね。」
俺はちょっと微笑むと、同期と彼女より少し先に歩みを進めた。
「ちょっとだけ荷物持っていてくれません?コートのベルトが解けた。」
彼女はそういうと、同期にバッグを預け、背面にあるベルトを触るとどう結ぼうかと考えていた。何回か試していたが、うまく結べないらしい。
「うーん、見えない・・・どうしよう。」
「彼に頼んだらどうです?」
「そんな!こんなくだらないこと頼めないし、おこがましい。」
彼女はそう言いながらあたふたしつつ、まだ結ぼうとしていた。そして間もなく、「できた!」と歓声を上げると、
「どう、大丈夫?」
と、俺たちにくるっと背中を向けた。
「結べてますよ。確かに、着ながらは難しいですよね。」
俺は彼女にOKを出すと、そう一言付け加えた。
さっき桜の木の下でくるくると回っていた姿も、今俺たちに向けてコートのベルトが結べたのを見せる姿も、とにかく軽やかだった。春先の気候と、彼女の天真爛漫さがこれ以上ないほどに俺の胸を打った。
軽快なステップを踏む彼女を愛おしく思った。いつかその手を握り、誘いたい。
スプリング・ロンド みなづきあまね @soranomame
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