さようなら

 上まで行くと、そこはまだ濃い霧に包まれていた。やっぱり大元はアルフィナ様のいる城塞の町ケイムラートだろうね。

 でもこれで準備は整った。後は男爵様方の遺体を何処かへ隠し、ケイムラートへ行く。

 世界はおかしくなっているけど、まだ間に合うはずだ。だってその範囲は狭く、僕等だって生きているんだから。


「お疲れ様、ベリル。こっちの目的は果たした。後は予定通り――」


 そこまで話して、おかしい事に気づく。

 なぜ上って来る時、彼は下を確認しなかったんだ?

 僕らと知っていた? うん、それは十分あり得るね。登る時にもあれこれ言っていたから、それが聞こえていたと考えればおかしくはない。

 でも一応、下は確認するんじゃないか? うん、それが自然だよ。そうだよね、ベリル。


 そこにいたのは、確かにベリルだった。

 戦闘があった形跡はない。ただこちらに背を見せ、外を警戒する体制で窓の外を見ている。


「バステル!」


 後から上がってきたシルベさんが叫ぶ。分かっているよ。分かっているんだ!


 僕の頭の左右ギリギリを通って、ベリルに向かって短剣が飛んでいく。だけど僕が邪魔だったから牽制にしかなっていない。

 ではあるけれど、ベリルはそもそも避けようとはしなかった。片方は壁に刺さるが、もう一本は上腕の鎧が無い場所に刺さる。

 だけどその向こうは虚空の様。一応青い血が流れたが、短剣は地に落ち、傷口の中は真っ暗で肉も何も感じられなかった。


 続いて登ってきたメアーズ様が、ひょこっと頭を出す。出来れば見ないで欲しかった。でももう遅い。


「ベリル……なのですね」


 そこにいたのは確かにベリルだった。しかし口は耳まで裂け、獣とは少し違う細い牙が無数に生えている。

 後で知ったけど、あれはサメという魚の歯だそうだ。


 顔全体は蜂の集団に刺された様に真っ赤にぼこぼこと膨れ上がり、目や耳が何処かは判別出来ない程だ。

 一方で、手首など肌が見えている部分は、細かな魚のような鱗がびっしりと生えていた。

 だけど外套コートに革鎧、それに手槍と腰の剣。服装自体は変わらない。

 それになりより、纏う空気が変わっていなかった。


「ああ、戻って来たのか……」


 あまり感情が感じられない言葉。間違いなくもう人ではない。

 でも僕は右手を横に広げ、後ろの二人を制止する。まだ意識がある。でも――、


 ――もう戻せない。

 ――もう治らない。

 ――もう人じゃない。


 分かっているよ、そんな事。

 結構大きな町なのに、ここまで人の気配を一度も感じなかった。ここはそんな場所なんだ。

 僕のミスだ。ここに置いて行くべきじゃなかった。どんな危険があったとしても、それがセオリーと外れていたって、一緒に行くべきだった。


 他の皆が無事だったのは、僕がいたからだ。浮遊する変な蟲たちは僕を避けていたし、他の人に取り付かないかも見張っていた。ラマッセの体の効果もあっただろう。

 だけどここにずっといたベリルは、何の抵抗も無く、気が付かないうちに変貌を遂げてしまった。

 だけどまだ意識がある。まだベリルなんだ。


「ああ、他もご無事で、ですね。メアーズ様、お、お、お疲れ様です。目的は、は、は……」


「大丈夫。予定とは変わってしまったけれど、ちゃんと果たしてきたわ。もうすぐラウスも来るわよ」


「ラウス……ラウス……ああ、そうだ。懐かしい、い、い、い、い」


 次第に声がくぐもった音に変わっていく。人の言葉も、じきに話せなくなってしまう。

 どうするべきなんだろう。人であるうちに、殺してあげるべきなのか?

 いや、人でなくなったから殺してあげるなんて……僕が言うべき事なのか?


「わたくし達は、これから予定通りにアルフィナの救出に向かいますわ。ベリル、貴方はどうするの?」


「べ、ベリル……誰? 分からない。だけど、帰りたい。帰る、る、る。ここ、ここは、ここはもう、こちらの世界に変わる。だ、だか、だから帰る」


 こちらの世界に変わる……霧が晴れるのだろうか?

 確かに、予定ではここはあまり霧が濃くなかったはずだ。変容はアルフィナ様の通った場所とその周辺に限定されている予定だった。

 下にあった祭壇のような物。あれに何か意味があったのだろうか。でも帰る……帰るって言われても。


 ――もう分かっているだろ、テンタ。あれはもう彼じゃない。

 ――他の誰か。向こうの世界の者。


 そんなの分かっているよ。でも何か――、


「ベリル・ヘクシン。それがお前の名だ。サンライフォン男爵軍要人警護隊。今の主はメアーズ・サンライフォン男爵令嬢だ。忘れるな!」


 いつの間にか、ラウスが登り切っていた。

 その言葉に反応したのだろうか、わずかに振り向くと、


「ベリル・ヘクシン。メアーズの部下。分からないけど、覚えた。きっと、きっと、きっと、いつか、どこかで」


 それだけ言うと、ゆっくりと歩きだす。

 途中の椅子をすり抜け。壁もすり抜け。もうこの世界の存在じゃなくなってしまった彼は、ゆっくりと霧の中に消えていった。まるで溶けるように。


「ベリルは先に行っただけですわ。もしわたくし達が向こうの世界に行ったとしたら、彼に案内させましょう」


 メアーズ様の言葉がどこまで本気かは分からない。向こうの世界――それは、神の世界に他ならないのだ。

 だけどその言葉を区切りとして、僕らは再び歩き出した。本来の目的の為に。

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