霧の中

 少し余裕をもって出発したせいもあるけど、昼よりも大分早い時間に霧の中へと突入した。

 既に、全員が用意していた外套コートを羽織っている。準備は万全だよ。


「皆さん、絶対にはぐれないで!」


「大丈夫だ、見えている」


 メアーズ様は左手一本で僕にしがみ付きながら、右手でカンテラを回す。


「大丈夫。まだ三騎とも見えるわ」


 後方を確認したメアーズ様の安堵した声と様子が感じられる。

 まだ霧に入ったばかり。ここから先は濃くなってくる。


 だけどミリーちゃんの話だと、アジオスの方面は霧が薄いらしい。

 でも彼女は行けなかった。そこに“敵”がいたからだ。話によると、魔物の他に侯爵軍も混ざっていたそうだ。だけどどこか変だったという。まあ、もう大体予想はつく。その人たちは人の姿をしていても、もう魔物になってしまったんだ。

 肌で感じる。ここはもう、僕らの知っている世界じゃない。この世と神の世の境界線。狭間。僅かの油断も出来ない。


 目には見えないけれど、空に、大地に、何かがうごめいている。

 それはまだ不安定な存在だけど、やがて何かに憑りついて変容する。

 だからといって、いちいち構っている余裕はない。数が多いのもそうだけど、大元を何とかしなくちゃいけないんだ。


 僕はこの時、決して油断なんてしていなかった。

 匂いや温度、反響定位エコーロケーションで周囲を確認していた。

 そうでなければ霧の中を走れないし、その中に潜む者の姿も分からない。


 だけど今、突然背後に巨大な気配を感じ取る。

 大きい。馬に乗った僕らより少し低い程度の体高。全体の長さは3メートルくらいか?

 かなりの巨体にも拘らず、足音が一切しない。他の4人も気が付いていないようだ。

 だけどそれは確かに実体化している。そしてその怪物は高々と跳躍した。僕らめがけて!


「敵です!」


 叫ぶと同時に右足から延ばした拘束触手を奴の腕に巻きつけ、そのまま地面に叩きつける。

 急な重さを感じて馬が立ち上がっていななくが、ここは耐えてもらうしない。

 その勢いでわずかに霧が薄くなる。そこにいたのは巨大な蜘蛛。全身を灰色と金色の毛に覆われた不気味な怪物であった。


「もう出たか」

「予想はしていた!」


 直ぐに二人の兵士が馬上槍スピアを怪物の背に突き立てる。

 幾ら大きくても……いや、的が大きいからこそ外さない。周りからは見えていないけど、僕の拘束触手もしっかりと巻きついているしね。

 飛び掛かって来られたら厄介だけど、奴は今それを剥がそうと引っ張っている状態だ。

 今なら余裕――そう思った矢先だった。


 ガキン! と金属音がして、打ち込まれた馬上槍スピアが弾かれる。

 そんな馬鹿な! 僕の見立てだと、あれはそんなに固くはない。ましてや金属音? 何に当たったんだ?


『シュ、シューシュー、シュシュ―……』


 何か声を発しているけど、僕らに意味はわからない。単なる呼吸音かもしれない。

 だから気にしても仕方がない。大事なのは、こいつらが僕らに襲い掛かって来たって事だ。

 それ以外の事なんて――、


『シュシュ、シュー……ソノチカラ、ワレラガ、シュシュ、シュー……シュノタメニ……』


 なんだろう? 今ちょっとだけ、言葉の様な感じだがした。

 それに……おかしい。何かがおかしい。あれは何だ? 見た目は大蜘蛛だ。化け物だ。だけどそうじゃない。それが何なのか、言葉が出てこないのがもどかしい。

 でも何処かで――そう、どこかで感じた事がある様な気がする。



「化け物め! ここならどうだ!」


 前に回り込んだベリルの馬上槍スピアが、怪物の頭を目がけて放たれる。

 他の誰にも見えなかったけど、僕には見えている。同時にラウスが背後から突進し、再び馬上槍スピアで攻撃しようとしているのが。

 前後からの連係攻撃。そしてたまたまだろうけど、メアーズ様も馬から飛び降りた。

 外套の下から覗く白いミニスカートが勢いよく翻る。これで3人同時の攻撃だ。


 幾ら化け物でも、これで終わりだろう。だけどなんだ? 不安がぬぐえない。

 生き物のような姿なのに、何かが違う。そう、空気だ。纏う空気が普通とは違う。

 生き物とも違う、金属などの無機質とも違う。この世には無い、普通の人が決して遭遇しない何か。

 何処かで……いつかどこかでそんな奇妙な体験をしているきがする。


 次の瞬間、大蜘蛛はぐるりと回転した。


 ――しまった!


 メアーズ様がいなくなったせいだろうか? 触手で繋がっていた僕の体は、軽々と宙に放り出されていた。

 正面から馬上槍スピアを投げたベリルは素早く攻撃をかわす。元々囮的な意味合いがあったから、距離を取って投げたのだろう。避ける事も念頭にあったに違いない。流石だ。


 後ろから攻撃したラウスの馬上槍スピアは、くるりと回った怪物の目にクリーンヒットした。

 良し! ではあったけど、奴には傷一つ付かなかった。

 逆に横薙ぎの一撃で馬の二本の前足は断ち切られ、ラウスもろとも土の地面に叩きつけられる。

 だけど地上で受け身を取ると、素早く腰の剣を抜く。あの状態でも慌てない。流石は護衛を任される腕だ。


 メアーズ様も攻撃していたが、同時に放たれた後ろ脚の一撃で吹き飛ばされていた。

 幸いガードは出来ていたようだけど、まさか彼女の攻撃を受けきるとは思わなかったよ。


 そして頭から地面に落ちる僕。


「ぐええ」


 きちんと集中していれば、多分ちゃんと着地できた。それだけの体術はあるんだ。

 だけど僕自身に、それを使う意識が備わっていない。

 額が裂けて血が滲む。ああ、赤い。そうだ、人の姿をしている時は血も赤いんだ……こんな時なのに。僕はそんな変な事を考えていた。

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