【 動き出した使徒たち】
農業の町マユオ
アルフィナとミリーを乗せた馬車は騎馬隊に守られ、順調に城塞の町ケイムラートを目指していた。
境の街アレクトロスから出て、前線にある交易の中心都市であるパケソの町、更に進んでマユオの町に到着したのは、そろそろ昼に差し掛かるかという時間。
これが早馬であれば、多少無理をしてでも次の城塞の町ケイムラートまで進んでいただろう。
だが護衛隊長のケルネット・エヴィウデンは紳士な男であり、馬車で移動する二人の体力を案じ、ここで昼食を取る事にした。
もちろん、自分自身の休憩もある。
夏の熱い最中、重武装でここまで駆けてきたのだ。馬の疲労も冬とは比べようもない。
疲労困憊のみっともない姿で到着するよりも、ここで一息入れたいというのが本音であった。
マユオの町は、近辺を細かい川とその水源を利用した農耕が中心とした牧歌的な街だ。
特別何かの産業や工房があるわけでは無いが、巨大な農耕地は膨大な人間を養うことが出来る。ただそれだけで十分すぎると言って良いだろう。
人口は2万2千人を超え、この地方で最も有名な城塞の町ケイムラートが抱える人口1万6千人を悠々と上回る。
しかも城塞の町の住人は兵士。両都市の食料の殆どをこの町が担っている事を考えれば、この周囲の肥沃ぶりが伺えるだろう。
いわば、ここと隣の城塞都市こそが侯爵領と呼んでも過言ではないほどであった。
「あっつ……このまま蒸されていたら、それだけで死んじゃうわ」
馬車の中、アルフィナは服の胸元を大きく開けてパタパタと空気を送っていた。
とはいえ、上は軽装だが下は
ちょっと見る角度を変えれば胸の先端も白いパンツも見放題なほどに軽装のミリーとは対照的である。
しかし「脱げば?」とは言えない事は分かっている。こちらは苦笑いをしながら、団扇でパタパタと彼女を仰ぐだけだ。
「休憩はするようだけど、どうやら降りることは出来そうにないね」
既に馬には水が与えられ、護衛の騎士たちは鎧を脱いで水を被っている。実に羨ましい事だと二人とも思う。
「今更逃げるとでも思っているのかしらね」
「まあ、逃がしたら首が飛ぶと思っているのは間違いないね」
ミリーの毒舌に対して、歳相応にアルフィナの頬が膨らむ。こうしていると、本当にまだ10代前半の少女たちだ。
「失礼いたします」
そんな二人の乗る馬車の後部扉が開く。
扉を開けて半身入ってきたのは、粗末な綿のワンピースを着た下働きらしい女性だった。年は20歳前後だろうか。
手にはバスケットを持っており、はみ出たパンが見える。大方、近くの料理屋の働き手だろう。
基本的に、貴族の食事はきちんとしたテーブルで行うものだ。それはたとえ戦場であっても変わらない。
それが無理な場合でも、最低限火を通した暖かな食事が当たり前。当然、その娘であっても同じである。
バスケットに入れた冷めた料理を食べるなど、平民のする事だ。
ただそれはあくまで礼儀作法の事。見た目上は確かに完璧な美少女だが、アルフィナ自身は野山を駆け、食べられそうなら雑草でも食べていた野生児だ。知識としての礼儀作法は知っていても、そこから外れたからといってとやかく文句を言う気はない。
ミリーに至っては貴族でも何でもない。それどころか、工房では仕事の合間にパンを切って食べ、カビが出たら焼いてから薬と一緒に食べるという生活だ。食事のマナーも何もあったものではない。
だが気にしない事と、実際にされたのでは意味合いが異なる。
(これでは客人ではなく捕虜扱いね……)
(食事が用意されただけマシと思いたいけど、この暑さじゃねぇ)
環境以外に文句はない。それが二人の共通認識だった。しかし粗略な扱いは、確実にストレスとなってのしかかる。
そしてアルフィナの感じたストレスは、確実に形となって現れ始めた。
「ひっ!」
短い悲鳴を上げると、女性は腰を抜かしながら逃げて行く。
互いに見つめ合い、やれやれといった顔をする。だから言わんこっちゃないのだ。
せめて馬車から降ろし、涼しい場所で休ませればよかったのにとミリーは思うが、こうなってしまってはどうにもならない。
馬車の中は歪んでいた。それはアルフィナの不快感が実態となって現れていたもの。
二人とも見ないようにしていたが、天幕の内側では捻じれた御者の首がプラプラと振り子の様に左右に揺れている。
馬車の内側はまるで色とりどりの珊瑚に覆われたような質感になり、そこかしらの隙間からは馬車の厚みを無視してタコやウツボなどが潜み様子を伺っていた。
悲鳴を聞きつけ、のんびりと水を被っていた兵士が駆け付ける。
馬車の周囲の空間には幾つもの穴が開き、その向こうに何かが見える。赤かったり青かったり、それは生き物か、はたまた鉱石か……一見しただけでは分からない。
だが確かに、それは虚空に開いた穴から人間の世界を覗いていた。
「急ぎ出立せよ! 一刻の猶予もならん!」
冷静さを失い狼狽するケルネットの指揮を受け、食事はおろか鎧すら着る間もなく一団が出立する。
新たに乗り込んだ御者は、御者台の板の隙間――精々5ミリ程度の隙間から、何かが前の御者をズルズルと飲み込んでいる光景を見た。
当然、本能で悲鳴を上げて即座に逃げるが、そこに待っていたのはケルネットであった。
豹の様な精悍な顔つきは悪鬼のようになり、一太刀で逃げた御者を斬り伏せる。
「褒美は思うがままだ! だが逃げる事は許さぬ! もっと良い生活がしたいのだろう! 家族に楽をさせたいのであろう! さあ、早く乗り込め! 出立する!」
すぐさま新たな御者が用意された事はさすがというしかないだろう。
しかしそれは同時に、彼らの生活がひっ迫している事を現している。この侯爵領も今は中央から孤立し、南方からは魔族がやってきている。
余裕などは無い。だからこのような手段に訴えたのだ。たとえ不都合があろうとも、今更時間は元には戻らない。
とはいえ、その様子を見た兵士だけではなく、町の人間全てに恐怖が伝播する。
巨大な農業の町マユオもまた、歪みに飲み込まれ始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます