金木亭からの脱出

 きっと本来ならそんな状況では無いのだろう。だけど、人間なのだから仕方がない。

 若い茶髪の兵士と御者の人は、今まで食べたものを床にぶちまけていた。


 だけどもう一人の兵士は早かった。鞘のボタンを外す音さえ聞こえる間もなく馬上刀を取り外すと、斜めに振り上げ一直線に振り下ろした。何一つ、迷いなしに。

 刀と鱗が撃ち合う金属音が店に響く。でも効かない。数枚の鱗を割っただけだ。

 すぐさまヒレによる反撃が来るが、素早く剣で受ける。

 こうして互いに激しく打ち合うけれど、単純な技量勝負は互角らしい。どちらも傷一つ付いていない。


「焦らなくても大丈夫です。食べる方か食べられる方か、それは分かりません。ですがもうじき、どちらかに変わります。その時に改めて考えればよいではありませんか」


 初めて会った時と同じ落ち着いた口調。でももう声が違う。雰囲気が違う。魚の口から吐き出される言葉には、人間らしさは欠片すら残ってやしなかった。


「メアーズ様!」


 剣で切り合いながら、兵士が叫ぶ。


「ええ。ラウス、ハイラ―! 動けないのなら貴方たちは置いて行きますわ!」


 そういってメアーズ様は僕を掴んでうまやへと走る。

 見た目は変わりない。吐きもしない。でも微かな震えが伝わってくる。

 彼女も怖さを感じている。だけど考える事を止めてしまったら、抵抗を止めてしまったら、死ぬしかなって事をよく理解している――そんな感じが伝わって来ていた。



「くそ! ハイラ―、馬車は任せた」


 そういって薄茶髪の兵士は剣を抜こうとするが、手が震え鞘のボタンを外せない。

 あのタイプ――長柄の斬馬刀は普通に引き抜くタイプじゃない。革鞘のボタンを外して取り出すタイプだ。

 最初に斬りかかった兵士――確かベリルは抜く間さえ見せなかったけど、普通はああなるよね。

 僕も人間だったら茫然自失。何が起きたのかさえ理解せず……死んでいた……いや、実際に死んだんだよね。


 メアーズ様が馬車に到着すると、ハイラ―と呼ばれた御者が足をもつれさせながらやって来る。

 後ろの扉からが高らかな笑い声が響いている。店主だったケイルバートさんだったモノ。二人はどうなったんだろう?

 だけど今はこちらが先だ。


 二人で馬を外し馬車に繋ぐ。休み始めていた馬たちは明らかに不機嫌だ。だけど今は緊急事態。耐えてもらうしかないね。


 ちなみに僕は、作業の邪魔なので馬車に放り込まれていた。

 懐に入れてもらえないのが寂しい……。

 二人の兵士の馬も、一応ロープは外しておくようだ。

 そしていよいよこちらは外へ――ではあるが、二人の表情に明らかな絶望が走る。

 周囲の霧はより濃く変わり、夜の闇もあって一寸先も分からない。

 丸く灯っていた魔晶の明かりも消え、何も無い本当の闇の世界が広がっていた。うまやの中は明るいが、もうもうと入ってくる霧で視界がどんどん悪くなる。


 だけど分かる。僕には見える。霧に包まれた町。基本的にはまだまだ普通の町だけど、建物の柱から木の枝が生えていたり、石畳から山羊の目が覗いているなど色々とおかしくなっている。

 しかもの中に混ざる魔獣。塀の上には二つの狼の頭を持つ獣人。下には地面をビチビチと泳ぐように這いまわる巨大魚。そして、人の顔と真っ黒い剛毛を持つ四本足の大型犬がうごめいている。

 これらは現実。今までの影みたいな連中じゃない。もう実体化した生き物だ。


 いつからなのだろう? 僕たちを招き入れた兵士を思い出す。あの時の彼は人間だったんだろうか?

 いや、そもそも金木亭の店主、ケイルバートさんは人間だった。でも家族を料理していたあの時は? 体から発する匂いは人間でも、心が人であったとは思えない。

 もうこの世界は大きく変容してしまった。この影響が何処まで広がっているかは分からない。

 でも間違いなく言える。この変容は、先に行くほど濃くなっている。そこにアルフィナ様がいるのだから。


 アルフィナ様……。

 こんな状況であっても、僕にとって最も心配な事はアルフィナ様の安否だった。

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