奇跡の技

 まるでそれ自体が無かったかのように、一瞬にして体調が回復する。

 それを一番驚いていたのは、他でもない、本人であるグレイス・サンライフォンその人だった。

 呼吸もままならなかった胸の激痛が一瞬にして消える。痺れていた腕も、曲げることすら出来なかった足の関節も、オレンジの粉が舞うと共にあっさりと消失する。後に残るのは完全なる健康体。まるで血流が本来の道を取り戻したかのように、全身に血が巡り体色も回復する。


「こ、これは……」


 思わず尋ねようと声が出る。だがラマッセと名乗る神学士は、まるで誰かに聞かせるように、静かに――だが決して他者の言葉を受け入れぬ姿勢で話し始めていた。


「今、かつて滅んだ神がこの世に再び再誕しようとしています。名をヴァッサノ。歪む英知と虚空の神と称された、神の中でも特に危険とされた1柱ひとはしら


 その名は僕の心の中に深く刻まれている。本能としての恐怖。その名を聞くだけで気配を感じ震えてしまう。でもみんなそうだろう。それ程に恐れられた神だ。

 だけど倒された。神の力を得た人間――半神デミゴッドによって。


 その英雄譚は吟遊詩人の詩や本、それに紙芝居などで広められ、一部の姿を模した彫刻などは魔除けにも使われる。

 僕が知っているのは漆黒の羽毛の様な塊だけど、それは全体像じゃない。似せれば似せるほど、本物が何らかの影響を与えると信じられているからなんだ。


「今起きている事。周りの異変、人々の変調……全てがその影響です。ですが、それは事象の一つ、最初の段階にすぎません。このままでは、今とは比べ物にならないほどの変容が起こります」


 そう言いながら、隣のベッドへ静かに移動する。

 そこには大きく浅黒の屈強な戦士が横たわっていた。目は半目に開き、呼吸も静か。もういつ死んでもおかしくはない。そして彼の体にも、同様に見えない蟲が何匹も張り付いていた。


「かつて、この世界には数多くの神々が存在していました。ですが今は、10の柱を残すのみ。多くは神の世界へと還り、また一部は神同士……あるいは半神デミゴッドとの戦いで消滅したとされています」


 話ながらも、手は止めない。

 横たわる男から幾つもの異形の何かを取り払うと、また次のベッドへと移動する。

 たった今まで死にかけていた男が飛び起きて左右を見渡すが、全員の視線はラマッセに注がれている。

 男もそれに気づいたのだろう。同様に、静かにその行為を見守り言葉を聞く。


「しかしあれらは神。完全に滅んでなどいないのです。実際には、いつ再誕してもおかしくはない。ですが――」


 テキパキと3人目を処理し、4人目へと向かう。

 進行方向にいた医師や看護師らは、まるで救世主を迎える様に道を開けひざまずく。


「ですが、神には神で縄張りがあります。同じ場所に別の神が仲良く存在する事はあり得ない」


 あれ? それじゃあもしかして……。


「ヴァッサノの死は、他の神々にとって大きな好機でした。この世に再びやってくる場所が出来たのです。ですが神の再誕など、そう簡単にできるものではありません。それに実際の所、どのような手段を用いて再誕するかなど、我ら人間には図りようもない」


 言葉を紡ぎながらも、ベッドで倒れている人達の異物を排除していく。

 その姿に、もう誰もが畏敬の念を感じている。

 でもまあ、気持ちは分からなくもない。今の彼がやっている事、言葉の響き、動き……まるで聖人の様じゃないか。


「そのため、我々も何一つとして予測を立てることは出来なかった。当然、確実で有効な対策など知らないし、手の打ちようもない。今まではそれでも良かったのです。現実には何も起きていないのですから」


 確かに生活はそれなりに大変だったけど、僕らは僕らの世界で普通に暮らしていた。


「しかし今、そのヴァッサノが再誕しようとしている。より正確に言うのであれば、一番可能性が高いというだけの話です。もう今この瞬間、別の神が誕生してもおかしくはないのですよ」


 なぜヴァッサノなんだろう。南の大陸にいた神。この国と近いから? それとも、記録にある限り一番最近になって倒されたから?

 いや、違う。そうじゃない。

 考えないようにしてきたんだ。平和な生活を守るために。

 でも分かってはいるんだ。違うんだって……普通じゃないんだって。


 ねえ、ラマッセ……。

 今のこの事態を引き起こしているのはアルフィナ様。ううん、アルフィナ様に巣食っている何かが原因なんだね。


 肉眼で見れば、美しくも儚げで、そして愛らしい、まだ幼さも残る顔を拝むことが出来る。

 だけど右目の眼帯の奥、あそこが歪んでいる。あそこから、周囲も歪んでいる。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると、世の中も、運命さえも歪ませている。目では見ることは出来ない。だけど、僕は感知している。あれが――、


 ――そうです、テンタ。あれこそがヴァッサノの欠片。生きている一部なのですよ。

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