神学士

 ファサ……突然現れた男――いや、少年が予備のシーツを掴むと、肩から掛け腰に巻く。

 綿のように柔らかそうな緑の髪。長髪というほどには伸ばしてはおらず、まるで羊の毛の様だ。

 背は150センチを少し超えた程度だろうか。少し頬笑みを浮かべた、子供と言って良いほどの童顔。

 だけどその物静かな表情にも関わらず、周囲の兵士達の動きを止めるほどの迫力があった。


 シーツの下に見える肌は白く、また鍛えたような筋肉は見られない。それどころか、栄養も足りていないのではないかというほど細い。今までの人とまるで違うタイプ。


 しかしそんな事よりも、誰の目にも最初に飛び込んで来たもの。それは上半身に施された広範囲の入れ墨だった。

 まるでステンドグラスのような鮮やかな色合いで、歪な四角や三角を組み合わせたような抽象模様。

 描かれているのは燃えている塔だろうか? それとも何か別の……生き物の様な何かなのだろうか?


 その姿に注目しつつも、誰も何かを訪ねようとしない。だけど奥にいた医師らしい一人が、「神学士……」とぼそりと呟いた。畏敬と……恐怖を含んだ感情で。


 神学士。その名の通り、神の研究に人生を捧げた人。神はそれぞれ性質が違っているけど、どれも共通していることがある。それは、見るどころか近づくだけでも命を落とす可能性が高いという事だ。


 それを防ぐために特殊な入れ墨を入れる。入れ墨と言っても針で墨を刺すのとは訳が違う。魔晶自体を埋め込むんだ。僕らの国ではよく灯りなどに使うけど、本来は強力な魔力を秘めた鉱石の総称。効果も様々だよ。

 でも便利な反面扱いは難しく、特に素手で触ったら物凄い激痛が走る。それだけで神経が壊れてしまう事もあるくらいさ。


 そんなものを埋め込むのは、これが僅かとはいえ神の力を逸らしてくれるからだ。

 だけどそんな事をしたら寿命が縮むなんてものじゃない。長く生きられた人はいない。この世の何処にも。


 そこまでして神の研究を行う。自らの好奇心を満たすために。そして神とは何かを人々に伝えるために。

 最初から生きることを捨てた存在。神すらも恐れず、だが決して無謀な愚か者でもない。この世界における、究極の探究者の一人。

 だからどこの国でも、彼の様な神学士には皆一定の敬意を払っているんだ。


 そしてそんな姿だからこそ、全裸にシーツ一枚という服装が逆に神秘的な印象を与えている。


「失礼いたします。私の名はラマッセ。ただそうとだけ覚えおきください」


 まるで小鳥の様な声。中性的な見た目もあって、胸が膨らんでいたら誰もが少女と思っただろう。

 昔みんなが言っていた男の娘って、彼みたいな人の事を示すのだろうか?


 ――違うからね。


 あ、やっぱり意識は通じているのね。ちょっと安心したよ。

 ちなみに僕は左手に捕まれているように見えている。正しくはくっついているんだけどね。こんな事も出来るようになったのさ。


 メアーズ様は目ざとく僕を一瞥いちべつすると、


「貴方が今回の雇い主ですの? まさか黒幕とは言いませんわよね」


 ……と、少し納得したような口調で訪ねてきた。


「私はそのような大それた存在ではありませんよ。もっと大きな――今は言えませんが、より大きな流れの中に身を置くものです」


 大きな流れ?


 ――そう。これからいう事を、全部覚えておくんだ。君は知らなければいけない。知って、その上で考えるんだ。


「大きな……流れか。御大層なものだ。どこから現れたかは知らん。神学士ともあればそういった技もあろうし、非礼を咎める気もせん。だが忠告するが――」


 ベッドの上で再び上半身を起こしたグレイスさん――メアーズ様のお兄さんが何かを言おうとするが、もうその時には音もなくその隣へと移動していた。

 余りの自然な動きに、護衛の兵士も動けない。


「ご心配なく。私はすぐに消え去ります。ただその前に、メアーズ様」


「な、何ですの?」


「テンタをお願いした事。そしてここまで連れてきてくださった事、感謝に堪えません。その報酬の前払いという訳はありませんが、私が出来る範囲でお礼を致しましょう」


 その内容をメアーズ様が聞く前に、空いていた右手でグレイスさんに張り付いていた巨大なダンゴムシを掴む。

 それは他の人から見れば、何もない所で手を閉じる奇妙な動きに見えただろう。

 ダンゴムシは張り付いていたといった感じじゃなかった。何と言うんだろう? 融合とも違う。ただ同じ空間にいただけ……そうとしか言えない状態だった。


 少し手を動かすだけで、何の抵抗も無くするりと抜ける。そして軽々と握り潰せるほどに脆かった。

 ただ、消えた時オレンジの粉が僅かに舞う。これは視覚でも感知できる。つまり、ここにいる人間全員が見たんだ。


 何が起きたかは分からない。これが危険な行動かもしれないという疑念はあるだろうけど、それを止めるだけの根拠も持ち合わせてはいない様子だった。

 その間にもラマッセは、肩や足に付いた小さな虫を取っては潰していった。

 同じ様にオレンジの粉は舞うが、それは直ぐに消え、ベッドの白いシーツには染み一つ残していなかった。


 ただ、誰の目にも分かる変化はあった。

 誰の目にも衰弱していたグレイスの体が、見る間に生気を取り戻していく。

 通常、病気でも怪我でも、治療したらすぐに治りましたなんてことは無い。原因を取り除いても、怪我や炎症など、壊れていた部分が直るまでは本質的に治ったとは言えないからだ。

 なのに今、目の前で起きたことは違う。それは奇跡と呼んでもいい。誰から見ても先の無さそうだった人間が、一瞬にして回復したんだ。

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