気まぐれな女神

 遠い空の下。クレスが住む国とは違う国。

 そこでは今、主神である”たぎる血脈と豊穣の女神”ヤーンが活動を開始していた。


「あんた、早く早く。もうすぐ来るってさ」

「ダメだ。羊も牛もいなくなったら、どうせ俺達はみんな死んじまうんだ! ほら、さっさと集めろ。急げー」


 草原をのそのそと歩く羊と牛の群れ。

 中年と男女。老婆、そして他にも十数名の男女や沢山の子供たち。家族だけでなく、親族一同大忙しだ。

 彼らは牧羊を生業とする者たち。仕事柄、こういった移動には慣れている。だがいざ速く動こうとすると大変だ。


 その先には、家畜よりもはるかに多くの人々が、延々と列を成している。彼らは村や町からの避難民。いつ終わるとも分からない逃亡の旅に、もう疲れ果てていた。


「おまえたちー、もっと急げんのかー!」


 鎧を身にまとい、騎乗した男の一団が大声で声をかける。

 後ろに残った者達を急がせるため、戻ってきた兵士達だ。


「もう少し待って下されー。ほら、お前達も急げ急げ!」


 親族を急かし、家畜を集める。誰だって死にたくはない。それはこの男も同様だ。

 だが日々の糧を失っては、この先生きていくことは出来ない。

 だから家畜を置いてはいけないのだ。


「やれやれ、戦争なんかしなければ今頃もっと余裕があったのに」

「今更しょうがないけどね。女神さまも、どっか別の方へ行ってくれないもんかねぇ……」

「口じゃなく、手と足を動かせー!」






 その遥か後方に、巨大なものがうごめいていた。

 緑と紫をした、球根のような姿。大きさは直径6キロメートル。上に伸びた先端は4キロメートル程。

 後方には20キロメートルを超す根が多数伸びており、移動により削られた大地が溝となって、遥か先まで続いている。

 それは現在移動中の、”滾る血脈と豊穣の女神”ヤーンの姿であった。


 ゆっくりと、だが確実に動いている。

 何処へ? それは分からない。神の考えることなど、人間に分かるはずが無いのだ。


「うをおぉぉぉぉぉぉぉん」


 大きな音と共に、球根の先端が伸び、口が大きく広がった。

 そしてそれは、大きく空気を吸い始める。視覚出来るほどにはっきりと、大気が渦を成す。

 音を出しているのに息を吸っている。見た目は奇妙だが、ただ息を吸っているだけ。そう、見た目だけならそうだろう。





 遥か彼方にいた牛や羊が、まるで磁石に吸い寄せられるように宙に浮く。

 それは家畜だけではない。近くに潜んでいたウサギやキツネ、鳥、更には無数の昆虫たち。

 当然ながら――


「う、うわああー、そ、そんな! 神よ、どうぞお許しを!」

「助けて! あんたー!」

「お父さん! お母さん! ああああー」


 人も飛ぶ。兵士達も、乗っていた馬も。まるで引き寄せられるように空を飛ぶ。

 その先は、息を吸い込んでいた巨大球根の頂上。女神ヤーンの口の中。


「うああああああ!」


 遥か先を歩いていた避難民の多くまで、その口の中へと飲み込まれていく。

 吸い込んだのは動物だけ。草原は何事も無かったかのように、緩やかな風の中で揺れている。

 そして無人となった荷物や馬車もまた、そのままの形で残された。だけど、誰も拾うために戻りはしない。

 いつ次が始まるのか分からないのだ。そんな命がけの行動など出来はしない。

 ただ叫び、泣き、荷物を捨て、神に祈りながら一心不乱に逃げて行った。



 数日後、女神ヤーンは先端から真っ赤な霧を噴出した。

 血ではない。それはただの赤い霧。しかしそれがみ込んだ大地からは、豊かな作物が早回しのように生えてくる。その美しさは、まるで地上の降りた楽園の様。

 すぐさま昆虫が集まり、鳥や小動物、それらを食べる獣。いずれは人もやってくる。それが自然のサイクルだ。

 だが女神は、そんな事など気にしない。何処いずこともなく、ゆっくりと世界を移動するのであった。

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