新しい名前
僕を抱えた小さな体が、弾むように駆けていく。
進む先にいるのは女性だ。ママと読んでいたから、母親なのかな?
「あら、それはなあに?」
「へんなのよー。わたしを見ても、逃げないのー」
「動けないのかしら。怪我はしていないみたいだけど、大丈夫かしらね」
女性は少し困ったように首を傾げている。
厚手の綿のワンピースに分厚いウールのマフラー。手袋もしているし、足元のブーツは革製だ。上に着ている防寒着は薄手の毛糸製。僕ら庶民より結構上の身分と見た。
だけど周囲は木々に囲まれた人気の無い道。当然、舗装なんてされていない。そこに女性の親子が二人きりで護衛もなし。貴族様とかじゃない……商人だろうか?
年の頃は20代後半くらい。濃い金色の髪を一本に束ねて右肩から垂らしている。美人だけど、どこかおっとりした女性に感じられる。
女の子と違って、こっちは普通の人間に感じるかな? やっぱり、この子が違うのかな。
実はちょっと、僕の感覚器官が壊れたのかと疑っていた。そうでなくて良かったよ。
ただこの女性、かなりやつれているのが気になる。栄養状態が良くないんだろうか?
でもその割に、爪が綺麗すぎるような……。
僕ら貧しい身分の人間は爪を見れば解る。
商人はその点、しっかりと手入れをしている。
手を見れば商品の質が分かる。自分の管理も出来ない人間に、大切な商品の管理なんて出来はしない。それが常識だから、逆にやらなきゃいけないんだ。
「ねえー、つれて帰ってもいいー? いいでしょー?」
「そうねえ……いいわ、ママももう疲れちゃったし。今年の施しはその子にしましょう」
施し……あ、そうか――
「わーい。良かったね。あ、そうだ、名前を付けなきゃ」
今日は多分、12月20日。僕の様な貧しい者でも……ううん、貧しいからこそ馴染みの深い日なんだ。
「そうねえ……てんた、テンタが良いわ。今日からあなたの名前はテンタよ」
かつて今よりも沢山の神々がいた時、満点の空には慈悲なる施しの星神テンタクロスがいた。
それはもう、空が真っ白に輝く程だったという。
だけどあまりにも厳しい冬の日に、人々は飢えで滅びそうになった。
そんな時、空を覆う白い星々から透明な手が伸ばされた。地上の全ての人々へ。
貰たらされたのは、ほんの小さな施し。だけどそのおかげで、人々は滅亡の淵から生き延びることが出来た。
でもその代わり、神様は力を失い消えてしまったという。
だから今日は、その神話を記念した施しの日。誰もが誰かに小さな施しを与える日。
きっとこの親子は、その施しを僕に与える事にしたのだろう。
ぎゅっと抱きしめる女の子の、嬉しそうな息遣いが聞こえる。
顔の周りは相変わらず歪んでいて分からない。だけどきっと喜んでいる。そう感じる。
触れられているところが熱い。そしてどうしようもなく切ない。この気持ちが何なのかは分からないけど、決して不快なんかじゃない。
それどころか、この時の為に生まれてきたような、そんな思いすら感じる。
ただただ、寒く不安だった心に温かな何かが満ちてくる。
僕はいつまで生きていられるのだろう。そんな事も考えたけど、もういいや。
きっと長くはない。でもその時間の使い道は、たった今できた。
僕もまた、星神テンタクロスに誓うよ。僕の残りの時間は、この子と共にあらんことを。
□ △ □
親子が辿り着いた先は、結構大きなお屋敷だった。
木垣とはいえ塀があって、その内側には庭もある。
建物は石とレンガ造りの二階建て。でも全体的にはボロい。築何年何だろう? まともな手入れもされていないように見える。
倉庫の類は見受けられない。商人じゃないんだろうか?
「ただいまー」
「ただいま帰りましたわ」
外と違って、中は木造りだった。流石に天井までは覆っていないけど、床と壁は木板で覆われている。
これはちょっと侮っていたかもしれない。こんな屋敷に住める人間は、ちょっとやそっとの商人じゃない。
「お帰りなさいませ、お嬢様、奥方様」
パタパタと走っていく女の子が、粗末な薄緑色をした綿のワンピースを着た女性の横を駆けぬけていく。
その先は暖炉のある一室。ここも木張り。そして床には絨毯が敷かれている。
部屋全体は温かく、女の子は僕をテーブルの上に置くと、さっそくコートを脱ぎ始めていた。
そこには既に、一人の男性がソファに座っていた。
歳は30歳に達しているかどうか。短く濃い金髪に緑の瞳。
精悍そうな顔立ちで立派な筋肉の持ち主だ。だけど、何処か穏やかな……というより生気のない空気を醸している。
ふと、右手の手首から先が無いことに気づく。
「やあ、お帰り。早かったね。ところでそれは何だい?」
それとは言うまでもなく、僕の事だろう。
「テンタよ!」
弾む声で勢いよく答える。僕の名前はもうテンタで確定のようだ。
理由は分からないが、よほど懐かれたのだろう。両手で抱えて離そうとしない。
僕もまた暴れたりはしないので、男性も何も言わない様だ。
そういえば、多分この人が父親なんだと思う。まだよくわからないけど。
だけど少し気になった。
お母さんと似た感じがする。それは見た目であったり雰囲気だったりするが、僕の場合は香りもある。
夫婦は似るとは聞くけど、それとは違う。まるで夫婦というより兄妹といった空気を醸していたんだ。
だけど家庭環境なんて複雑なものだからね。これからゆっくり知っていけばいいさ。
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