豪雨の中で

 滝のような大雨が、巨大な屋敷を騒がしく打ち鳴らす。

 外周を高い塀と水堀に囲まれ、入り口は一か所のみ。内側にはコの字型の屋敷が建ち、中庭には弓兵用の丸い尖塔が設置されている。

 その形はもう、屋敷というよりも小さな砦といって良い造りであった。


 星どころか月さえ見えぬ闇の中、時折雷光が激しく光る。

 少し遅れて響く轟音。それは雨の音より、なお激しく窓を揺らす。

 しかしそれよりも更に大きな声が、屋鋪の廊下に響いていた。


「ホギャー、ホギャアー!」


 それは赤ん坊の泣き声。

 嵐にも負けぬその叫びは、確かな生命の力強さを感じさせる。普段であれば、そこは今頃歓喜に包まれていただろう。

 だがその場にいる者たちに、新たな命の誕生を祝うものはいない。


「子供は! ねえ、どうして! 会わせてよ! あの人の子供なのよ!」


「いけません、奥方様! どうか、どうか落ち着いてください!」


 明かりが漏れる部屋からは、半狂乱となった女性の声と、それを鎮めようとする若い女の声がする。

 一方、真っ暗な廊下では、一人の男が泣き叫ぶ赤ん坊を抱いたままうずくまっていた。


 歳は20台の後半だろう。金髪に緑の瞳。女性のように端正な顔立ちだが、筋骨たくましく、かなり鍛えられた人間であることが見て取れる。

 服は高級なあつらえ仕立ての絹製品。腰に挿した短剣の柄には、四方に宝石をあしらった三本角の獣トライコーンの紋章が衣装されていた。

 普段はこんな情けない姿を人に見せる男ではない。しかし今は違った。


「この事は内密にせよ……」


 左手に赤ん坊を抱き、右手は髪を掻き分けるように額に当て、ただただ憔悴しきった声で呟いた。

 だがそんな力無き男の言葉に対し、傍に立っていた初老の産婆と、同じく初老の屈強な男が熱っぽく反論する。


「無理です! 無理でございます、閣下。この事はすぐに知られましょう。国王陛下のお耳に入るのも時間の問題でございます」


「この事が知られれば、結果は火を見るよりも明らか。ここは自ら決断する事で、ご不興を収めるしか他にありますまい」


 それはある意味当然と言えた。この事を放置すれば、自分達の身にもわざわいが降りかかることが明らかだったからだ。

 しかし、男は首を縦には振らなかった。


「こんな……こんなことが許されてなるものか。あってはならぬのだ! 神め! 呪われた存在め! 滅びて尚、我等をここまで苦しめるのか!」


 男は天を仰いで叫ぶと、手にした赤ん坊を睨みつける。正しくは、まだ開いてもいない右目を。


「こんなものはこうして――」


 その目に右手を伸ばす。だが――


「ぐあああああー!」


 近づけた人差し指と親指の皮が裂け、血と肉が弾け飛ぶ。後に残ったのは2本の骨。

 だが男は怯まない。残る三本の指だけで腰に挿した短剣を引き抜く。


「殺させはせぬ! 断じてこの子を殺させはせぬ! わが命に代えてでも!」


 叫び、赤ん坊の右目に刃を近づける。

 だが結果は同じ――いや、更に酷い。

 ボキリという鈍い音と主に、男の右手首がミチミチと音を立て2回、3回と回る。


「ぎゃああああああああ!」


「閣下! ああああああ、閣下の手が! 手が!」

「ええ、早く治療せよ! 貴様は医者でもあろう!」

「わ、私は産婆にて……」

「いいから早くせんか!」


 産婆はヒイヒイと言いながら、千切れかかった右手に布を巻く。

 既に男は失神していたが、最後まで左手に抱えた赤ん坊だけは離さなかった。

 その小さな左目は開いていない。しかし右目は、本人の意思とは無関係なようにわずかに開く。

 その奥に見える物。それは真っ赤な塊。まるで羽毛を固めたような小さな玉だが、人の力ではその細かな一本の端すら折ることは出来ない。

 ドクドクと脈打つように動き、細かな起毛の一本一本が、まるで生まれてきた世界を確かめるようにうごめいていた。


 ――誰もがそれを、本能で知っている。それは呪われし神の欠片。人の原罪。


「神よ……我らが主神アステオを。どうか閣下を……そしてそのお子を、呪われし神ヴァッサノからお守りください」


 初老の屈強な男は涙を流しながら天を仰ぐ。

 しかし応える声は無く、奇跡も起きず、ただ雨だけが降り続けた。





 この日、一人の少年が命を落とし、また一人の少女がこの世に生を受けた。


 新連合歴103年10月20日。

 運命はただ静かに、だが確実に動き始めていた。

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