触手にされた僕ですが、必ずやお嬢様をお守りします

ばたっちゅ

少年と少女

少年と豚

 手の震えが止まらない。両手で握っているはずなのに、手にした粗末な剣はガタガタと揺れている。


 緊張で視界が狭まってくる。臭い。息苦しい。自分の呼吸の音が、酷く耳障りに聞こえてくる。



 ここは教会の地下。かつては倉庫として使われていた場所。

 壁に取り付けられた魔晶の明かりが、石造りの部屋を怪しく照らしている。

 充満するのは多少のカビ臭さと、むせる様な血の匂い。

 僕たちをここまで連れてきたローケン隊長の上半身は完全に潰れている。

 同行した兵士達も、一緒に村から連れて来られたみんなも、もういない。全員死んでしまったのだから。


「ブッフッフ、甘かったなぁ、人間どもよ。この魔王ラズーヌ様に歯向かおうなど思わなければ、もう少し長生きできたろうになぁ」


 何が魔王だ。お前はただのオークメイジじゃないか。

 口元から2本の牙が生えた醜い豚の顔。人間のような二足歩行で、3メートル近い強大な体躯。全身を覆うのは濃い緑色の不潔な毛皮。それと背中で蠢いている無数の触手。

 背中はともかく、その姿は噂に聞くオークそのものだ。実際に見た事なんて無いけれども。


 右手に持っているのは大きな鈍器。何の飾りも無い、少し歪んだ鉄の棒。今はみんなの血で真っ赤に染まっていて、ポタリポタリと嫌な音を立てている。

 何処から見てもただの怪物モンスター。腰に巻いた布だけが、妙に人間っぽさを醸し出していた。

 本当に、何でこんな所に来てしまったんだろう。





 僕が住んでいる村は貧しい。

 土地は痩せているし、冬は雪で埋まる。町までは遠いし特産品も無い。かつては騎士が治めていたけど、極貧生活に耐えきれず出奔しゅっぽんしてしまったという。


 なのに、魔物の数は年々増えている。大人たちは次々と魔物退治に連れていかれ、まだ誰も戻って来ていない。

 もう秋の収穫を始めなきゃいけないのに、本当にどうしろって言うんだ。

 そんな困り果てた僕らの元に、山奥の教会に魔王が住み着いたという知らせが舞い込んできた。


 魔王――名前は強そうだが、そんな大したものじゃない。ちょっと知恵のついた魔物や盗賊、果ては遠くの国の王が名乗ったなんて話もある。要は、自分は強いぞというアピールだ。

 実際、目撃者の話だとオークメイジで間違いないという。でも普通は単体では行動しない。

 近くで人間とオークが戦ったなんて話は聞かないから、おそらく群れからのはぐれ者。

 追放されたか、神の怒りに触れたんだろうさ。


 逸れ者とはいえ、魔物を放置することは出来ない。こうして、隣の町から6人の兵士が派遣されてきた。

 王都ならとは言わないけど、せめてもっと大きな町だったら、もしくは鉱山地区だったりしたら、きっと大勢の兵士が派遣されたんじゃないだろうか。

 だけど現実は違う。何もない村を守るために派遣されてくる兵士なんてこんなものだ。

 足りない人員は現地調達って事になる。どうせ荷物持ちや道案内程度なのだから、大人も子供も関係ないとの事だった。

 僕は明日、15歳になる。成人を迎え、村から町への移動が許可される。だからそれまで、僕は絶対に死ねないのに。



 頭の上を強風が吹き抜ける。棍棒に付いていた真っ赤な血が壁に飛ぶ。全員あれにやられてしまった。


「面白い! 早い速い。ブハハハハハ。ほら、もっと避けてみろ!」


 豚面を醜く歪めながら、無差別に棍棒を振りまわす。そのたびにブンブンと音が鳴り暴風が吹き抜ける。

 あんなもの1回でも当たったら終わりだ。実際、隊長ら正規の兵士は鎧を着て盾も持っていた。なのに一発。木の盾も金属の鎧も、何の役にも立たなかった。ましてや、鎧も着ていない僕が助かるわけがない。


「うわっとっと!」


 ずるりと足が滑り、一瞬バランスが崩れる。石畳に溜まった血のせい。

 今攻撃されたら終わりだった。だけど――


「ブホッ、ブホホホホ、今のはなかなか滑稽こっけいだったぞ。ほらほら、かかって来い。ブハハハハ!」


 完全に遊ばれている。そりゃそうだろう。

 僕は同年代に比べても背が低い。あいつの半分も無いだろう。手足の太さを比べたら、それこそ丸太と棒切れだ。それに兵士達と村から来た仲間、11人を殺している。全員一発で。

 だから余裕なんだ。遊んでいるんだ。もう自分を傷つける相手はいない。そう信じて余裕をかましているんだ。


「もう終わりか? ほらほら、もっと逃げろよ」


 長らく放置され、朽ちていた木の樽が砕け散る。

 もちろんすぐに逃げ出したい。だけどこのまま背中を見せれば絶対にやられる。逃げられない。

 だから――


「ほうら、どうだ!」


 棍棒を振り下ろすと同時に、馬鹿みたいに開けた口からよだれの飛沫が飛ぶ。

 もうあいつの興奮は最高潮。絶対の安全を信じ切った油断の塊。

 だから今、この瞬間がある!


 姿勢を低くして、振り下ろされた棍棒の横を跳ねる。

 太い腕と棍棒が陰になって、奴は一瞬だけど僕を見失ったはずだ。

 全身全霊を掛けたこの一発。粗末な剣の一突き。でも、それでも倒せるわけがない。だけど、倒さなくていい。

 背後に着地すると同時に急旋回。目標は、目の前にある豚野郎の右足、アキレス腱。ここを突き刺し、痛がっている間に逃げる。上手くいけば、もう追っては来れないはずだ。

 そして応援を呼ぶんだ。6人も兵士が倒されたとなったら、次はもっと大勢派遣されえてくるはずだ。そうすれば、こんな魔物なんてすぐに討伐される。


 だけど――まるで岩を突いたような感覚が手を襲う。鈍い金属音と共に弾かれた剣が飛び、腕がじんじんと痺れる。

 与えた傷はほんの少し。緑色の剛毛の奥から、青い血が染み出しているのが見える。


「ほお……まさかな。そうかそうか」


 空気が変わる。先ほどまでの遊びが嘘のようなピリピリとした空気。

 表情も口調も変わり、さっきまでとは別の存在とまで思ったほどだ。


「小僧。貴様は運命というものを信じるか?」


 いつの間にか、空いていた左手の人差し指と親指に何かが摘ままれている。

 それは黒い塊。まるで鳥の羽毛を一つにまとめたようなふわりとした作り。

 だけどそれは石よりも鉄よりも何よりも固い。どんな事をしても、その細かな一本一本さえ砕くことは出来ない品。

 僕はあれを見た事は無い。でも聞いたことはある。それに聞かなくても――それが何であるかを知らなくても、僕たちはあれに恐怖を感じてしまう。

 何でこんな奴が、あんなものを持っているんだ!


「分かるだろう、これが何なのか。そうだ、これは神の欠片。貴様ら人間が滅ぼした神の残りだ」


 歪む英知と虚空の神ヴァッサノの一部。悪夢の象徴にして最悪の物質。

 それで、僅かについた足の傷を擦る。


「これで契約は結ばれた。喜べ! この祝福を! この俺様に傷つけたその力、これからは我が力として有効に利用してやろう!」


 黒かった塊が炎よりも赤く光り、羽毛のような細かな毛羽けばが生き物の様に震えだす。

 ――けど、だけどそれは一瞬。すぐにまた、黒く動かない形へと戻る。

 一体何が起きたのか、そして何が起きるのか、僕には知る事は出来なかった。


「貴様はもう死ね」


 太い鉄の棒が、僕の頭めがけて振り下ろされる。

 僕は生まれて初めて――そして人生の最後に、自分の頭蓋骨が砕ける音を聞いた。

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