恋香炉事件

「はぁ・・・面倒ね」


 一人の少女は、ポツリと低い声で呟いた。

 その呟きに、義弟である緋毬は肩を小さく揺らせながら、少女に目をやった。


「天音姉上・・・如何しました?」


 緋毬は恐る恐る、忌々しそうに一枚の紙を睨みつけている少女に声を掛けた。


「例の香炉よ・・・」

「と言うと、恋香炉でございますね?」


 少女、天音あまねは酷く機嫌が悪かった。その原因は、最近巷を騒がせている一つの香炉に原因があった。

 その香炉は、恋香炉こいこうろと呼ばれており、その香りは人の思考回路を麻痺させ、正常な判断が出来ないほどに知能が低下させていくというものだ。

そのような薬が、なぜ恋香炉などという名前で売られているのか。


「何でも、その香炉は嗅ぐと思考回路を麻痺させ、知能を低下させるだけではなく一番最初の見た人に対して、強い愛情を芽生えさせるとか」

「馬鹿らしい・・・」


 天音は眉間に険しい皺を寄せながら、配下から報告された報告書を睨みつけ、恋香炉に対して侮辱した。

 勿論、そのような薬は倫理観の問題で大っぴらに売られているものではない。所謂、闇市場と言われる場所で売り捌かれているようだった。

 何故そのような薬が夢幻郷で問題視されているかと言うと、客である女達がその香炉を購入し、男達に嗅がせ、足抜けする者が増加しているからだ。

 足抜け。それはつまり駆け落ちを意味する。男達を身請けする事が出来ない女たちはこのような手を使って、非合法的に一緒になろうとするのだ。

 そんな事、経営者からしたら溜まった物ではない。自分の店の商品を万引きされる事を変わらないのだから。


「先日も、伊月屋の若草わかくさ花魁が足抜けされたと・・・」

「えぇ、伊月屋の遣手が酷く嘆いていたわ。伊月屋の稼ぎ柱と言っても過言ではなかったから。女の方は夢幻郷へ足を踏み入れる事を禁じられたし、可哀想だけど若草は一年間寺で修行ですって」

「一年・・・随分と甘い罰ですね。普通見つかれば男は折檻もの、女は処刑でしょう?」


 緋毬は心底疑問そうにしながら天音にお茶を差し出した。

 天音はそれを一見すると手に持っていた資料を投げ捨て、お茶に口を付けた。

 資料はヒラヒラと宙を舞いパサリと音を立て、畳の上に落ちた。


「本当なら、緋毬の言う通りね。けど、そう出来ない理由があるみたいよ」

「理由・・・ですか」


 緋毬は、流れるような動作で天音が落とした資料を拾い集めた。


「大衆的な理由は、今回の足抜けは恋香炉という香炉のせいで思考回路が麻痺し、正常な判断が出来なくなっていた為での意思ではない。その為、足抜けをした男より、唆した女の方が重罪。だから女の方が二度と夢幻郷に訪れる事が出来ないのに対して、男は一年間の寺修行のみという事になってるわ。でも、それは大衆的な理由。本当の理由は他にあるわ」


 天音は南蛮から取り寄せた長椅子から立ち上がり、肘かけに置いておいた茜色の羽織を両手に持ち、その羽織は天女の羽衣の様に空気を含ませふわりと舞った。


「なんだと思う?その理由」

「・・・分かりません」

「そうね。私も分からないわ・・・はね?」

「今は、とはどういう・・・うっ!」


 緋毬が問おうとした瞬間、天音は緋毬の口に人差し指と中指を差し込んだ。

 ぐちゅぐちゅという水音を立てながら、天音は人差し指と中指を器用に使い、緋毬の舌を弄んだ。

 緋毬は一瞬苦しそうな顔したが、すぐさま恍惚とした表情に変わり白い頬を赤く染め、天音の指を傷つけまいという健気な思いにより、口は半開きになり、口端からだらしなく垂れる唾液も気にせず、天音から与えられる刺激かいらくに酔いしれた。

 暫くして、天音は満足したのか、ゆっくりと指を抜き取った。緋毬は、腰が抜けたのか畳の上に座り込み、腰を少しビクビクッと痙攣させていた。しかし、未だに緋毬の顔からは、天音から与えられた過剰すぎる刺激に頬を染めていた。


「緋毬、貴方に密命を命じます。貴方はまだ振袖新造だから自由に動けるでしょう?恋香炉について、もっと詳しい情報が必要なの・・・客が立て込んだ時、その客たちから情報をかき集めていらっしゃい。出来るわよね?私の可愛い可愛い仔犬ちゃん?」

「・・・女王様クイーンの仰せの通りに致します」


 緋毬はうっとりとした表情で、主人の命令に頷いた。

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