第2話 空を飛んだ日

 サンクトゥスに着いて五日後、街中の産院に産声が上がった。喜ぶウェルズと安堵の表情を浮かべるナーシャの間に産まれ、今ナーシャの腕に抱かれている赤ちゃんはカイルと名付けられた。


 アコーズへの帰路へは何事も無く、その後も目を離したらいなくなり大人しいと思ったら家を引っ掻き回すカイルに手を焼きながら、それでも年を追うごとにすくすくと成長し、気が付けば十年の月日が経っていた。


 十歳になると、子供達の大半は学校に通う。大半と言うのは、貧しい家庭だったり職人階級の家庭の子供は学校に通えない、または通わないからだ。


「カイル、いよいよ来週から学校だな。準備は出来てるか?」


「もちろん! いっぱい友達作っていっぱい遊ぶ!」


「それも良いけど勉強もな」


「わかってるよーだ!」


 学校に入る前に家で一通りの字の読み書きや算数を教えるのが一般的だったが、ナーシャの勉強から逃げ回ってたカイルがよく言うものだとウェルズは溜息をついた。


「そう言えばカイル、まだまだ先の話だが学校を出たら何になりたい」


「学校を出たらかぁ……ぼく、鳥みたいに空を飛んでみたい!」


 急に何を言い出すかと思えば、子供らしい可愛い夢だとウェルズは思った。ただちょっと考えていたものとは違ったが。そういえば自分も子供の時は、アレになりたいコレになりたい言ってたものだ。


「空かぁ、空と言えば兵隊さんのドラゴンだけど……」


「兵隊さんって学校を卒業したらなれるの?」


「いや、そこから軍の学校にまた通う事になるな。兵隊さんは大変だからな」


「それじゃまだ何年も先の話じゃん!」


 カイルはがっくりと肩を落としたが、ウェルズは空を飛んでみたいと聞いて一つ思いついた事があった。


「そうだ。鳥ほど速くは飛べないにしても、空を飛べる所がある。行ってみるか?」


「飛べるの!? 行く!」


「よし、じゃあ明日のうちに全部支度は終わらせような。明後日に空を飛びに行こう」


 その言葉にカイルは満面の笑みで頷いた。


 *


 二日後、カイルとウェルズはアコーズの郊外にある平原まで来ていた。そこには既に古い付き合いである友人が用意した、空を飛ぶ為の乗り物があった。


「久しぶりだなぁウェルズ、カイルもおっきくなっちゃって」

「コレルおじさん!」


 そう言うが早く、カイルはコレルの元に一目散に飛んでいく。小さい頃はよく遊んでもらっていた馴染みのおじさんだ。


「コレルは相変わらずか」

「相変わらずさ、パッとしない気象観測隊員よ」

「きしょーかんそく?」


 カイルの声にコレルは思わず笑みを深める。


「そうだ。ミリウス王国軍アコーズ気球気象観測隊だぞ」


 コレルは軍で気球を用いた気象観測の仕事をしていた。上空へ飛び雲や大気の状態を調べ、翌日の天気予報を出すのだ。かなりの手間と人手とそれ相応の知識を持った学者が要るので、民間ではなく国からの委託を受けた軍が行なっている。


「これで空を飛ぶの?」


「そうだ。熱気球と言ってな、国によってはモンゴルフィエールなんて変わった名前で呼ばれるみたいだが。とにかくこの大きいのが空に浮かぶんだ」


 そう言ってコレルは気球のバーナーに火を点ける。勢い良く吹き上がった火はたちまちのうちに気球を膨らませていき、目を輝かせて見守るカイルの前でどんどん空へと立ち上がっていった。


「さ、乗り込め乗り込め。あくまで気象観測用だからな、遠くへ行けるわけじゃないが」


「一番乗りー!」


 颯爽と人の乗るバケットに乗り込んだカイルに続いてやれやれと言った表情でコレルとウェルズも乗り込む。


 ややあってふわりと気球が地を離れた。気球は地上と太い縄で結ばれており、本来の自由は奪われている状態だ。だがそれ故に遠くへ飛んでいく事も無く、こうした体験飛行紛いの事も容易にできる。


 コレルがゆっくりと巻き取り装置から縄を繰り出し、少しずつ上昇していく。やがて周辺の木々を超え一面が見渡せる高さになってきた。


「すごい! あれがアコーズ!?」


「そうだな。これから通う学校も見えるぞ」


「どこどこ!?」


 カイルは身を乗り出さんばかりに忙しなくあちこち眺めている。落ちないように止めるウェルズもカイルに手を焼きながら、空から眺める自分達の町やもっと遠くの風景を感慨深そうに眺めていた。そのうち空を飛ぶ乗り物が出来るだろうか、そうすればこんな風景も当たり前に見れるのだろうかなどと思いながら。


 コレルはと言えば、双眼鏡を覗きながら手元の地図に何やら色々と書き込み、そうかと思えば気球に備え付けてあった計測機器を見たりして忙しそうにしていた。何でも遠くの雲の状態や気温、湿度が気象に関係してくるそうだが、門外漢のウェルズには全くわからない話である。


 *


 そうして空中散歩を始めて二十分ぐらい経った頃、双眼鏡を覗いていたコレルが突如大声を上げた。


「大変だ!」


「どうした?」


「コレルおじさん、どうしたの?」


 父子でそんな事を言うとコレルがアワアワした顔で、普通は大半の人が恐怖で青ざめる事を言った。


「ハルピアがこっちに向かって飛んで来ている」


 その言葉にウェルズは一瞬身体を強張らせたが、すぐに十年前の出来事を思い出した。そう、あの時はハルピアが自分達を助けてくれたのだ。


「早く降りなくては……ウェルズ、縄を手繰ってくれ!」


 もちろんコレルは大慌てで火の出力を弱めていく。とは言えあんまり急に弱め過ぎると墜落してしまうので、どうしてもゆっくりしか降りれないのが熱気球の弱い所だ。


 気がつくとハルピアはあっという間に気球のそばに来ていた。その場でホバリングするハルピアの風圧で気球が揺れる。コレルは身を屈めて「食わないでくれ食わないでくれ」と呟いていたが、カイルもウェルズもただ呆然と目の前に滞空する鳶色の巨獣を見ていた。


『君達を傷付けようというつもりは無い』


 ハルピアがそう言ったのを、確かにカイルは感じた。


「どういう事?」


 カイルは思わずそう聞き返したが、ハルピアからの返事より先にウェルズが反応した。


「どうしたんだカイル」


「えっ? あのハルピアが"傷付けるつもりは無い"って言うから……」


「……喋っているのか?」


「と言うより頭の中に直接聞こえてくるみたいな……お父さんは聞こえないの?」


 ウェルズは静かに首を振った。


『私達は声に出して話す事が出来ない。だからこうして1人ずつ念話をするしか無いのだ』


「そうなんだ。ね、ハルピアって僕たちに危ない事をするって聞いたんだけど本当?」


 カイルは十歳、まさに怖いもの知らずだ。


『そのような事は無い。ただ我々はこのような姿をしているし数も少ない。だから恐れを抱かせるには十分だという事なのだろうな』


 ハルピアがそう言うとカイルは分かったような分かってないような声で「ふーん」とだけ言った。


「お、おいウェルズ。あのハルピアは大丈夫なのか?」


 コレルが顔を上げてそう聞いたが、ウェルズにだって普通そんな事は分からない。ただ今は確信を持って言える。


「大丈夫、だろうな。どうもウチの息子に用事があるらしい」


「カイルに? なんでまた……」


「さぁな。ただこれはコレルにも話してなかったが……」


 そう言ってウェルズはカイルの産まれる前にあった騒動を話した。


「そんな事が……じゃあのハルピアはカイルの事を狙って……?」


「それこそ分からん。あの話が終わらん事にはな」


 カイルとハルピアはまだ話し続けていた。カイルは声に出していたが、片方の話だけでは何が何だかわからない。


 *


 ややあって、ハルピアはカイルに何か手渡して去っていった。コレルとウェルズは安堵の表情で見送ったが、カイルはただ呆然としていた。


「コレルおじさん、これ、めいわくりょう? だって」

 そう言ってカイルはおずおずとコレルに、ハルピアから貰った物を手渡した。


「おい、こりゃあ……」


 そう言って受け取ったのは三枚のハルピアの羽根だった。ハルピアの羽根は高級装飾品として取引される程、見た目の美しいものだ。個体数も目撃も少ない為に流通量が少なく、それでいて状態の良いものともなれば1枚で1ヶ月は暮らせる程の金が手に入る。


「いいのかい? こんなもの貰っちゃって」


「あのハルピア……名前はトゥーリエって言うらしいんだけど、とにかくトゥーリエがくれたんだよ」


 なら……と言ってコレルは大事そうに鞄に羽根をしまう。それは言わば取り立ての羽根だ、最も状態の良い物なので三枚売れば三ヶ月かあるいは四ヶ月は何もしなくても暮らせる程になる。


「結局何を話してたんだ?」


 ウェルズがそう聞くとカイルはうーんと首を傾げた。


「よくわからなかったけど……誘惑に負けずに健やかに育てって」


「それだけ?」


「いや、でもなんか世界がどうとか悪いやつらがどうとかって。悪いやつらと戦えってことかな」


 ウェルズもコレルも、その問いには答えられない。だがウェルズの脳裏にはかつて読んだ古い文献が思い浮かんでいた。ハルピアは世界に騒乱が起きそうな時に、救世主となる者の前に現れる。


 考えないようにはしていたが、ならばこれから世界は混乱の中に落ち、それを自分の息子が救うというのか?

 非現実的すぎると一蹴するのは簡単だが、あの神獣ハルピアの姿を人生のうちに二度も見れば、あながち笑えない話だ。


 *


 気球で空を飛んでから数日後、カイル達は無事に学校の入学式の日を迎えた。両親の心配も他所に、カイルは真新しい制服に身を包んで興奮を隠しもせず学者へと向かっていく。


 学校は結構な大きさで、校舎の他に運動場やらプールやらがあり立派な寮も併設してあった。学校長曰く、遠方から来る子供の為にあるのだそうだ。

 もちろんその辺りは兄のオルグから話は聞いていたが、やはり自分の目で見るのでは印象が違う。


 皆と同じように物珍しそうにきょろきょろ辺りを見回してみる。中にはアコーズではあまり見た事の無かった獣人やエルフもいたりして、カイルの期待はより一層高まっていた。


 その中で一人の女の子が目に入った。周囲の騒々しさには目をくれず、口を真一文字に結んで校舎の方を見つめている。


 父は学校に行く子の中には、色々と複雑な事情がある人もいる。と言っていたのをカイルは思い出した。「事情ってなに?」と聞いてみても、人それぞれだしカイルにはまだ難しいよとはぐらかされてしまった。


 よくわからないけど、あの綺麗な茶髪のあの子もきっとそんな事情があるのだろうと一人合点すると、カイルは改めて校舎に目をやった。


「カイル、いつまで見惚れてるんだ。遅れるぞー」

「はーい!」


 ウェルズに呼ばれて慌てて後を追う。聖歴524年4月、カイルの夢と希望に溢れた6年間はこうして順調に始まったのだ。

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