彼女のポニーテールが揺れ、世界が改変されるまでのバタフライ効果について
その脚は長いだけではなく引き締まっている。薄く伸ばされたように、筋肉は美子の太腿からふくらはぎまで満遍なく付いていて、内側に弾けんばかりのエネルギーを宿している。だから彼女の脚は長いだけではなく、また引き締まっているだけでもなく、美しい。
ユーラシア大陸の大河のように。
ユーラシア大陸の大河を見る者は、誰でもそれを最初海だと思う。最後までそれを海だと信じたまま人生を閉じる者の方がはるかに多いほど。
「私は生まれて初めて海というものを見た」
そう静かにつぶやく者に、それが河だと教えることに何の意味があるだろう? 誰かが河だと呼んでいるだけで、彼にとっては紛うことなき……。
甘神美子の脚はそのように美しかった。
彼女は中学から陸上をやっていて、走り幅跳びで県三位に入ったこともある。県一位よりも県二位よりも美子の脚は美しかったが、飛距離で三位より上を取ることは叶わなかった。高校に入学してからも陸上を続けたが伸び悩んだ。理由は単純で残酷で圧倒的でどうしようもない。美子の陸上への情熱が消えたからだ。ぎりぎりを見定めて踏み切り板を踏むことも、踵で砂を抉り巻き上げることも、額に貼り付く夏の熱も、冬の空気を吸い込むウインドブレーカーも、十五の頃のように心を躍らせてはくれなかった。ただ、十六になっただけなのに。だから美子は高校一年の三学期をもって、陸上部を退部した。
そして、十六年間短かった髪を伸ばし始めた。何度も切ってしまいたい欲求にかられたが、耐えて伸ばし続けた。十七の冬には、髪が長いと耳が寒くないのだと知った。十八の夏には、髪が長いと気温が三度は高い気がした。湿度に至っては、五十パーセント以上あがっているに違いないと感じた。
そう感じた誰もがそうするように、美子は髪を束ねるこにした。高校三年生一学期の期末試験前である。
勉強の邪魔にならぬよう無造作に縛られただけの髪はサムライのようで、それを見かねた友人の加古ちゃんが束ね直す。
「一回、ほどくよ」
その声に、美子は英語の問題集に目を落としたまま、無言で頷いた。
ほどいた髪を
「次、英語じゃないよ」
「知ってる」
美子は不愛想だ。
「これ、受験勉強」
不愛想なまま続ける。これが美子の通常だ。
漉かれた髪は、加古ちゃんの小さな手によってまとめられる。飴細工を作るように慎重かつ大胆に、加古ちゃんの手は美子の髪を集め、流れを作り、逆らわぬようなだめ、ひとつにする。そこに溢れる官能に教室の誰も気付かない。本人たちも、今自分たちが世界で最も儚くなまめかしい存在であることを知らない。世界はこうした奇蹟で満ち溢れ、その奇蹟は生まれた瞬間に死んでいく。その営みは止まることなく続き、やがてユーラシア大陸の大河となる。
「余裕だね。次、物理なのに」
と、加古ちゃん。
「ぜんぜん、余裕じゃない」
と、美子。
「その心は?」
まとめられた髪が、美子の顔と同じように不愛想なゴムに通される。
それに気付いた美子が、姿勢を正し、動きを止める。
「うん、おけ。で、その心は?」
加古ちゃんの問いに、美子は姿勢正しく前を見据えたまま答える。
「物理は捨ててる」
この日が、初めて美子がポニーテールにした日。
この日からずっと卒業まで美子はポニーテールだったし、世界が終わるその日までポニーテールだった。
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