約束

「この本、昔お兄ちゃんに読んでもらっていた本なんス。こっちはミノちゃんにもらった本。……ミノちゃん、あんなゴツい見た目で優しかったんスよ」


「仲間、だったんだよな……少しくらい、俺に恨み言を言ってもいいんだぞ?」


「お、でっかい男アピールっすね? でも、いいんス。アブザードになったら、もう人間じゃないッスから。あれは虚空の住人どもヴォイデンスに奪われた、ただの肉。……ミノちゃんとトロちゃんがタフすぎて、自分じゃどうしようもなかったッスよ。一回始末しようとして失敗して、散々あそこで追い回されたこともあったッス。だから、カオルおじさまは気にしないで? むしろキスしてあげたいくらいッスね」


 ツンツンと自分の唇をつついて見せたアノマリア。二階堂はそんな彼女の頭を撫でた。こうしていると、おっさんが元気なギャルとじゃれ合っているような、良い気分になるのだが、同時に、二階堂はアノマリアが自分のことを千歳超えと言ったのを思い出して、実は自分は年上を年下扱いしているの痛い奴なのでは? という可能性が頭をよぎり、モヤモヤした気分になるのだった。


 ――でも、歳のことをじっくり聞くのもな……。


 そんなことを二階堂が考えていると、アノマリアは頭を撫でられて機嫌良さそうに手元の本を指差して話し始める。


「――ここに書かれているのは、悪い魔女の手によって、塔の上に囚われた髪のながーいお姫様を、チンピラっぽい男が助け出して、最後には、二人は結ばれて王女と王子様になって幸せに暮らすお話ッス」


「なんか似たような話、聞いたことあるな……」


「……自分、カオルおじさまが橋の向こうからやって来るのを見て、乙女みたいに期待してしまったッス。見たこともない服を着て、いったい誰なんだろう。ひょっとしたら自分を助けに来てくれた王子様かも、って」


 次いでアノマリアは二階堂を見上げ、うーんと、口に指を当てて困り顔になった。


「結局、格子の向こうにひょっこり現れた人は、言葉の通じない腹ペコなおじさんだったッスけどね」


 二階堂は何も言えず、決まりが悪そうに頭を掻いた。


「でも、カオルおじさまは自分の王子様に間違いないッスよ。あのまま、あそこに延々と独りで居たら、もうすぐ自分も頭がおかしくなっていたッス」


「あの蟻塚城に残っているのは、お兄さんだけなのか?」


「そッス。残りの一人はアブザードになる前に死んだッス。お兄ちゃんと、ミノちゃんとトロちゃんが残ってしまったッスよ。そして最後に、一番大変な人が残ったッス。お兄ちゃんは凄く強いんスよ。アブザードになっちゃったから、もう術は使えないはずなんスけどね。それでも雷公珠ロザリー・サンダーボルトはお兄ちゃんの動きに応じてその力を発現させると思うッス」


 そんな話をしながら、アノマリアはニコッと笑うと、指を輪っかにしてちょっと卑猥な動きを見せる。


「おじさま、死ぬかも知れないッスからね。一発抜いとくッスか?」


「こらこら」


「自信、あるんスけどねぇ……カオルおじさまは、どうして自分になびいてくれないのでしょう?」


 アノマリアが肩を落として見せた寂しげな顔は、作った表情には見えなかった。


「――アノマリア、君は文句なしに素敵だよ。俺が歳を取ってて、このたぐまれな幸運を素直に受け入れられてないだけだ。偏屈になりつつあるんだろうな。……もうちょっと若かったら、とっくに押し倒してる」


 二階堂がそう言うと、アノマリアは真剣な眼差しを送ってきた。


「この螺鈿大地は恐ろしいところ。あの蟻塚城は殊更ことさらに危険。いつ死んでもおかしくない。明日は、おじさまは帰って来られないかも知れない。今抱いておかないと、後悔するよ」


 彼女の眼光に気圧されかけた二階堂だったが、彼はよわいの意地を見せた。


「……俺は帰ってくる。どうせ長い旅になるんだ。餌はその先に吊しておいてくれ。俺みたいな単純な男はな、そうやって餌をちらつかせて操るんだよ、アノマリア。今ご褒美を与えたらそれで満足して、もう死んでもいいやってなっちまう。君にはそれほどの価値がある」


 二階堂の言葉の終わりに、しばらく二人は見つめ合った。


 やがてアノマリアが無言で立ち上がる。


 二階堂が何かを言おうと口を開けた。次の瞬間、アノマリアの黒髪がふわりと揺れたのが見えた。


 トン……と胸を押され、カプリという音が驚くほど近くから耳をくすぐった。


 続いて肩口にザラついた感触があって、すぐに湿った温かさと、ぬらぬらとした柔らかい感触が首筋を駆け上ってきた。


 二階堂の耳には、濡れた息づかいだけが聞こえるだけとなった。彼女の黒髪からは洗練された甘い花の香気が匂い立ってきた。


 アノマリアはそうやって、ひと通り二階堂の肩から首にかけてをみ尽くすと、静かに身体を離した。


「変わった人……分かったッス」


 アノマリアはペロリと唇を舐めてから言った。


「じゃあ、もし……」


 彼女は少し言葉に詰まってから、続ける。


「もし、自分を旅に連れて行けたなら、その時たくさんサービスするッスよ。約束」


 にこっと笑った。


「――だから、カオルおじさまは死なないように頑張って、お兄ちゃんを仕留めて欲しいッス」


 彼女はそう言い残して、ひらひらと手を振りながら自分の部屋に戻っていった。二階堂の硬直が解けたのはその直後だった。


 ひんやりする肩を押さえ、先ほどまで彼女が座っていたコックピット席に茫然と腰を下ろした二階堂。座面の温もりがやけに熱く感じた。


 胸の痛みと息苦しさを感じて、ようやく呼吸も戻ってきた。


 コックピット席の小さなスピーカーから、小さくロンロンの声が聞こえてきた。


「ポイーン音は切っておいた」


「……ファインプレーだ」


「ああいう言い方は、フラグになるぞ」


「……フラグ?」


「俺、帰ったら結婚するんだ。などというお決まりの文句だ。大体それを言った人物モブは死ぬ。まぁしかし、そういったフラグをへし折る活躍を見せるのが、モブと主人公の差なのだがな」


 二階堂は指で目元を押さえた。頭がふわふわして目が回りそうだった。


「ところで、カオルはヘタレなのか?」


「……違う」


「あれは、進行度で言うとどの辺りなのだ? ペッティングには入るのか?」


「……キスとその間じゃないかな」


「Aをスキップ……A+くらいか。なるほど。それで――」


 その後、ロンロンに根掘り葉掘り聞かれた二階堂だったが、上の空で全部答えた。ロンロンと話している内に、やがて悶々となった気分が落ち着いてきて、彼がようやくベッドに横になれたのは深夜のことだった。

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