割れた瞳
「――でも、もう――これで全部終わりッス!」
大きく背伸びしたアノマリア。
「もう自分にすべきことは、何もないわけで。あとは……そーッスねぇ……さっき落ちていったイグズド。最後はアレを始末するッスかね。後続の奪還部隊が来た時にアレがいたら、また手こずってしまうッスから。アレ、たぶん上にいたウニ・イグズドの体液に誘われて出てきた
「いやいや、いや、まてまて。ちょっと待て――」
二階堂がアノマリアの手を掴もうと踏み込むと、彼女はその手を引いて避けた。
「
「待ってくれ……俺との、約束はどうなる」
苦し紛れにひねり出した言葉は、そんな下らないひと言だった。
――思えば、この女とは出会って一ヶ月も経っていない。引き留めるほどの関係性でもなければ、それが出来る材料も持っていない。彼女のことは、ほとんど何も知らなかった。
「困ったおじさま――ひょっとして、もったいなかったって、思ってるッスか?」
そう言って、クスリと笑ったアノマリアの顔には、いつもの人を
「でも、もう駄目。時間切れ」
二階堂は食い下がる。
「――君の言い分は分かった。でもだからって、まだいいだろう。あのイグズドは始末するにしても、まずは一回外に出て、落ち着いて話をしよう。事情を俺たちに聞かせてくれ。それでもどうしてもって言うなら、また俺が、やってやるから」
「そう言って、ビヨンド号まで連れ帰る気ッスね。駄目。あそこは心地よくて……おじさまとロンちゃんと、一緒に行きたくなってしまうッスよ――」
アノマリアはおもむろにコンタクトを外した。
下から現れた彼女のくすんだ青い瞳は、ふたつだったはずの
胸に冷たい釘を差し込まれたようだった。
「昨日の夜に、割れちゃったんス……
アノマリアは二階堂を見た。
「おじさまのせいッスよ?」
「俺の?」
「そうッスよ……」
アノマリアは、たじろぐ二階堂から視線を逸らした。
「……術を使ったから? あるいは、
「違うよ。おじさまのせいで、嫌な思いをしたからッス。……忘れたはずの感情の起伏が、また生まれてしまった。
「――俺と一緒に過ごしたのが、嫌だったのか」
「嫌ッスよ。辛いッスね」
そう言ってアノマリアは眉尻を下げた。
「――たったあれだけの時間で、いっぱいびっくりして、笑って、ドキドキしたり、怖い思いもしたり、お兄ちゃんのことで悲しくもなった。そんな感情、忘れたはずだったのに……もっとカオルおじさまと、ロンちゃんと、二人の楽しいやり取りを見ていたいなって、思ってしまったッス。今だって、こうして話をしてるだけで胸が痛てーッス」
「なら――」
「駄目。自分は行けない。
アノマリアが深く溜息をついて二階堂を見た。
四つに割れた瞳が、二階堂を見つめていた。
胸がしくしくと痛んだ。
「――さすがに、おじさまに殺して欲しいとは、言えないッスからね。そんなことをして、おじさまが
二階堂には、彼女にかけるべき言葉が浮かんでこなかった。
彼女の抱えるバックグラウンドが大きすぎて、自分があまりにも矮小過ぎた。
自分はただの、部外者に過ぎない。
二階堂が口をつぐんで硬直していると、アノマリアがチョーカーを外しながら、ふっと笑った。
「――おとぎ話みたいで、かっこよかったッスよ。暗い無力感の底で、貝のようになって沈んでいた、自分に差し込まれた一条の光。それがカオルおじさまとロンちゃん。檻の下からひょっこり現れた時の、おじさまのあの顔。忘れられそうにないッス。ぽけーっと自分のこと見て……ふふっ……嫌ッスねぇ……こんなこと考えると、また嫌になるッス。どうせ忘れるのに」
アノマリアは外したコンタクトとチョーカーを二階堂に押し付けた。
「楽しかったッスよ。最後に夢を見られたから。……抱いてはもらえなかったけど、あの時抱いておけば良かったっていう形で、おじさまの記憶に残るのも一興かな」
「まて――」
二階堂が伸ばした手は空を切った。
彼女は二階堂を押して大穴に身を投げた。
そして、穴の上で浮かんでいた。
下から突風が吹き上げているようで、彼女の黒髪が宙に躍り、片腕に旋風が渦巻いて、もう片腕に電撃を零している。
「――カオルおじさまのこと、利用するだけ利用して捨てる悪い女になっちゃった……」
「アノマリアっ‼」
「ごめんなさい。さようなら」
彼女はそう言い残して、暗い穴の底へと落ちていった。
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