アラフォーおじさま、おーじさまになる

二階堂は立ち上がった

 二階堂が茫然となって立ち尽くしていると、手元のチョーカーから声がした。


「カオル、まずはチョーカーとコンタクトを装着してくれ。ここは敵地だ」


 二階堂は素直にアノマリアが付けていたコンタクトとチョーカーを装着した。コンタクトは濡れていた。


『先ほどの件だが、カオルはフラれたということなのか』


「フラれたもなにも……好きだとも言ってない――」


 言葉の終わりに、苦虫を噛み潰したような顔になった二階堂。彼女の気持ちに応えようかと思い始めていた矢先の、突然の別れだった。


 ――思えば、予兆はあった。


 もっと早めに彼女の話を聞いてやるべきだったのだ。根掘り葉掘り聞けば、説得のチャンスはあったかも知れない。完全に二階堂の思慮不足だった。


 ――アノマリアの積極性の理由を考えなかった、お前の落ち度だ。


「この、頓痴気とんちきめ……」


 二階堂が忌々しげに独りごちると、そこにロンロンの声がかかる。


『逃した魚は大きかったのではないか』


 言われるまでもない。狂おしいほどに渦巻くこの胸のざわつきは、愛情の裏返しに違いない。たったひと月も満たない間に、れたのだ。


 ――いや、ひと目惚れだったのかも知れない。


 アノマリアは美しく、気丈で、明るく、愛嬌があって、そしてさち薄い女だった。


 彼女に何かを与えてやりたい。あの溌剌はつらつとして、いじらしい女を抱きしめたい。あのなまめかしい女が欲しい。ビヨンド号に迎え入れ、一緒に連れて行きたい。ロンロンと一緒に三人で旅をする。そんな未来があったはず。手放したくはない。


 しかし、そんな人としての直情を、アラフォーの分別が邪魔をする。


 別れは彼女の意思だった。無力な自分にしてやれることなど、何もない。


 アノマリアの言い分も分かる。自分が逆の立場なら、同じことをしただろう。強引に引き留められれば、本気で怒るかも知れない。それほどまでにイスランの状態は酷いものだった。そう、あんな姿になるくらいであれば――


 にこーっと笑いかけてくる彼女の可愛い顔が、イスランのように、あんなに醜く爛れて無残に失われていく。それが心の底から恐ろしい。


 まだ三半規管に深刻なダメージが残っているのではないかと思わせるほどに、床がぐらぐらと揺れていた。


 堪らず、その場でしゃがみ込む。


 またか――また手に入れかけた幸せが、自分の指の隙間から零れ落ちていく。そう思うと、どうしようもない虚脱感に襲われた。魂が足の先から吸い出されていくようだった。


 あと少し。


 あと少しで彼女と一緒に歩み出せた。


 いつだって、あと少しだった。


 何も掴むことの出来ない、自分の両手を見た。


 そこには、左手薬指に青く輝ける指環があった。


 あの瞳。


 あの笑顔。


 きっと彼女は、ひとつも嘘をついていない。彼女の好意は本物だった。


 こんな四十近い人生曲がり角の男に、あれほど懐いてくれた娘を、こんな暗くて寂しい場所に置き去りにするのか。


 次にこみ上げてきたのは憤りだった。


 あんな花のように笑う娘が、こんな場所に一人残って死ぬまで戦う。そんなことがあっていいはずがない。到底承服しょうふくできない。


 強く噛み締めた奥歯が痛みを訴えていた。


 あの娘を、この穴の底に追いやった、全てに対する感情の沸騰。


 そこには自分も含まれている。


 臆病者め。


 彼女を退しりぞけ続けたのは、老いさらばえた心の鈍感を、よわいの分別だと姑息にうそぶいていただけだ。


 穴に落ちていく時の、表情の消えた彼女の顔が胸をよぎった。


 今から追いかければ、彼女は怒るだろうか。


 いや、きっと笑ってくれる。自惚うぬぼれではなくそう思う。あるいは、振られた女のケツを追いかける男と言って、彼女は自分を指差して蓮っ葉に笑うかも知れない――。


 ――彼女にしてやれることが、ひとつだけあったようだ。


 理由なんて、それだけで良いか。


 アノマリアの笑った顔が見たい。


 その一念を胸に、二階堂は立ち上がった。


「――俺がアノマリアを追ってこの穴に飛び込むって言ったら、怒るか?」


『当然行くだろうと思っている。私達の大切な友人だ。彼女を連れて帰ってきてくれ』


 ロンロンは即答した。


「ロンロン、あの病気は治せるか?」


 二階堂の問いに、ロンロンが少し沈黙を挟んで答える。


『すまない、今はできると断言できない。彼女が虚骸コーマと呼ぶ状態は、病理が分からない。先日のメディカルチェックでは彼女に異常はなかった。彼女は至って健康体だ――だが、カオルが望むのであれば全力を尽くすことを誓おう』


 二階堂は小さく頷いた。二階堂にとって、この上なく心強い回答だった。


『希望はある。まず、アノマリアの生体構造はホモサピエンスとは異なる部分があった。彼女の身体をもっと詳しく調査すれば、ヒントが見つかる可能性はある。付け加えて、カオルが持って帰ってきた宝石サンプルの調査も進めているが、やはり不純物インクルージョンに科学的に未知の部分がある』


「科学的に未知、か」


『そうだ。カオル、この世界は未知の世界だ。幸か不幸か、アノマリアの様子を見ると科学技術は、さほど発達していないように思われる。我々の知識を応用すれば、未発見の治療法を開発できるに違いない。ビヨンド号は宇宙サバイバル船だ。未知の星で生き残るために必要な設備が揃っている』


「俺は」と言って、目の前の大穴を睨み付け、大きく深呼吸した二階堂。


「――何から何までロンロンに頼りっぱなしだな。女一人説得する材料すら、お前頼りとは、情けないもんだよ。この螺鈿大地では、もうお前無しじゃあ、俺は生きて行けそうにない。アノマリアが見てる俺の姿っていうのも、ひょっとしたら、俺に重なったロンロンの姿なのかも知れないな」


 二階堂は自嘲気味に笑った。


『なにを言う。私とてカオルなしではただの鉄屑に過ぎない。私はカオルの助けになるたびに、自身の存在価値を強く実感できる。カオルが私なくして生きていけないのであれば、私は紛れもなくカオルの一部と言えるだろう。光栄だ。私も、ビヨンド号も、君と共にある』


 そう淡々と語ったロンロンに、二階堂は胸を掴まれた。


「――なんかそれ、じんときたな。……もし俺が脳死したら、お礼にこの身体はロンロンにくれてやるよ」


『ありがたく頂こう』


 思わぬ返しにギクリとなった二階堂。


「おいおい、そこは違うだろ……っていうか、なんか怖えぇな……俺のこと、後ろから撃つなよ?」


『フレンドリーファイアはしない主義だ。カオルの肉体はフェアプレイで乗っ取ることにしよう』


 二階堂は小さく苦笑いし、腰のポーチの中継器に手を伸ばした。下に降りるために、ビヨンド号からの通信経路を開くためだ。ところが、そこにロンロンの思いがけないひと言がかかる。


『ところでカオル。こんな時に悔しいことだが、残りの中継器は先ほどの雷撃の余波で故障してしまったようだ。私は下層にはついていけない』


 ――ロンロンのサポートがない、だと……?


 衝撃的な知らせに、二階堂はギクリとなって言葉を失った。


『ここまで来て、また難易度が跳ね上がるな。クリア後の超難易度エキストラステージ突入といったところか。私達のコンビネーションを限界まで試す、せっかくのシチュエーションなのに、同行できないのが心の底から悔しい。回路が焼き切れそうだ。そこで、私から提案がある』


「――なんだ?」


 生唾を飲み込んだ二階堂に、ロンロンが意外な提案をした。


『ビヨンド号のニュートリノ・アクティブスキャナを使おう。それで蟻塚城の全構造と、敵の初期配置を君の端末に送信しておけば、きっと助けになる。ただし、ビヨンド号のエネルギーが枯渇することから、しばらく私はスリープモードに入ってしまう。カオル達の脱出はサポートできない』


 ニュートリノ・アクティブスキャナは透過性レーダーだ。いろいろと制約があるものの、この蟻塚城であれば内部の構造まで詳細にチェックできるだろう。


 ただし通常のレーダーとは比べものにならないほどの電力を食う。ビヨンド号のエンジンが使えない今、バッテリーの電力だけで使用できるのはツイていたが、そのバッテリーの電力を大量に消費してビヨンド号の活動が一時的に停止してしまうというのだ。


 ――この先ロンロンと通信できない以上、今はそれが最善か。


 二階堂は俯いたまま、覚悟を決めて唇を噛んだ。


「……よし、そうしよう。時間が惜しい。スキャナを使ってくれ」


『スキャンして、君の端末にデータを送れば私はすぐにスリープモードになる。準備は良いか?』


 そう言われて、二階堂が装備を確認する。


 ウェアはズタボロでジャケットは穴だらけ。不幸中の幸いか、フレキスケルトンは生きていた。ガウスライフルははじける。ソナーは故障していたが、フックショットはガス圧駆動なので無事だった。待避させておいたガウスライフル、ソニックセイバーソー、ネイルガンも無事。あとは、金紅石ルチルがひとつ。


「――あっ! アノマリアのドッグタグの位置、追えなくなるよな?」


 アノマリアには、二階堂のドッグタグを渡していた。あれは登録さえしておけば、宇宙のどこでも追跡できる優れものなのだ。元々ドッグタグは二階堂のものなので、ビヨンド号には登録済みだった。ただし追跡には専用のセンサが必要であり、それは今、二階堂は持っていない。ビヨンド号ならば追えるが、ビヨンド号と通信なくしては彼女の位置が掴めない。


『彼女をガウスライフルの共有者に設定したのを忘れたのか。ドッグタグにはガウスライフルのドングルが付いている。そこからの信号で追跡できるはずだ。カオルのコンタクトに位置情報をリンクさせておく』


 二階堂が視界にドッグタグの光点を表示された。それは、もうすでにこの真下から離れつつあった。その位置を確認しながら、二階堂がポツリと呟く。


「――三日かな」


『なんの話だ?』


「三日待って、帰ってこなかったら、後はロンロンの好きなようにしろ」


 少しだけ間があった。


『カオル、今さらそんなの許さないからな。私は電源が切れるまで待つ。いいな?』


 ロンロンの珍しい物言いに少し驚いて、そして二階堂はすぐに思い当たった。


「――意趣返しか」


『早速、そっくりそのまま言い返すチャンスが巡って来るとはな』


「ふふふ……ほんとうに、口の減らないやつめ」


 二階堂は短く笑った。迷いも、不安も、緊張も、つゆと消えていた。


「――じゃ、お別れの言葉は無しだな。……やってくれ、ロンロン」


 直後、二階堂の視界の下から徐々にミニ蟻塚城が浮かび上がるように出現してきた。二階堂の意思で内部の詳細なマップが確認できる。目の前の大穴や、足元に転がっている瓦礫までしっかり判別できた。


『下層へはフックショットで降りきれる高さ――さあ――君の姫を――行け――カオル――待っ――る』


 プツリと音声が途絶えた。

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