懐の深い男
アノマリアはエヴァイアという街から、〈一八二ストロングホールド〉――二階堂たちが蟻塚城と呼ぶあの拠点にやって来た。
目的はいくつかあったらしいが、一番の目標はあの矢を飛ばしてきたウニ――〈イグズド〉と呼ばれる異形を
イグズドは異形の総称で、姿形は決まっていないらしい。とにかく
そして、その目標は二階堂の手によって達成された。あの蟻塚城は、まだ掃除が必要なものの、一番の障害だったあのウニが始末されたことから、後は後続に任せても平気らしい。
では、アノマリアの残りの目的とは。
「イスラン――自分のお兄ちゃんなんスけど。殺すのを手伝って欲しいッス」
「――は?」
急に子供ができたと告白された時のような顔になった二階堂。
アノマリアは苦笑して続ける。
「まぁ、ちゃんと説明するから聞いて欲しいッス」
アノマリアはパーティを組んで蟻塚城に来た。五人パーティだったそうなのだが、そこにアノマリアの兄――イスランが同行していた。
「カオルおじさまが斃してくれたミノちゃんも、トロールのトロちゃんも、自分の仲間だったッス」
「――だった?」
「そう。二人とも虚無に食われてアブザードになっちまったッス。だから、いずれ自分が
「アブザードとは、正気を失った人間。そういう意味なのか?」
二階堂の問いに、アノマリアの目つきが鋭くなった。
「んん……近い。でも、ちょっと違う。
「そうなのか……元には戻せないのか?」
「無理。未だかつて治療に成功した例はない。……アブザードは、言うなれば
アノマリアは気だるそうに背もたれを押して背伸びをした。時折、彼女の瞳に宿る寂しげな色は、そういった理由なのだろうな。二階堂はそう思った。
ロンロンが割り込んでくる。
「蟻塚城の異形全てを相手にするのは、カオルでも無理だ。アノマリア、イスランの位置は分かるのか?」
アノマリアはおもむろに腕を持ち上げて、そこに巻き付いた数珠〈
「――これの片割れ、〈
すると、テーブル上の地図が消え、蟻塚城の立体映像が下から浮かんできた。
「どの辺りか分かるか?」
「これはまた、すげーッスね……お兄ちゃんはたぶん、地下にいる」
アノマリアは蟻塚城の地下部分を、スイカでもさするかのように撫でて示した。
「蟻塚城は、地下にアピス族の都市が築かれていて、幾層にもなっているんス。そのどこかにいるはずッスよ。たぶん地下一層にいるとは思うんスけど」
ロンロンは少しだけ間を置いてから、「カオル」と続ける。
「地下は危険すぎる。ガウスライフルは強力だが、数には対処できない。地下の構造は不明。城の奥は電波が届かない可能性が高い。異形に囲まれて、私のガイドがなければ、生き残れないぞ」
ロンロンの指摘は正しい。
二階堂は、自分のことをスーパーマンだとは思っていない。ただのアラフォーだ。ちょっと便利な家を持っていて、頼れる相棒がいて、そして間抜けな制約が課された強力な銃を
――だからといって、アノマリアの願いを
二階堂は言葉が出てこなかった。
「――自分、運動は苦手なんで、一人だと蟻塚城の奥に
「……俺よりも、アノマリアの方が腕力も脚力も上だと思うんだが、君達の基準だと、どんだけ凄い連中が運動神経抜群と言えるんだ?」
アノマリアは運動がダメだという。だが、彼女の腕力や脚力は、間違いなく二階堂を上回っている。彼女達の基準はどうなっているのか。
「そっすねぇ、ミノちゃんはフィジカルエリートの部類ッスよ」
「なるほど……」
あれと比べれば、確かにアノマリアは運動苦手と言えるのかも知れない。だがしかし――。
「じゃあ、俺の
「おじさまは、ちょーっと運動不足ッスねぇ……」
アノマリアが苦笑いしていた。
「せめて、イスランを地上に呼び出せないだろうか?」
ロンロンが聞いた。
「アブザードになると、もう記憶もないし、こっちの呼びかけにも答えないんスよ。それより前の段階だったら、可能性あったんスけどね」
アノマリアはうーんと腕を組んで黙り込んだ。
この話、二階堂にメリットがない。イスランを殺して何かが手に入るわけでもない、命を掛けるだけ損だ。しかも行き先は死地。その点を踏まえた上で、二階堂がアノマリアの話を聞く理由があるとすれば――。
「――お兄さんを殺すことが、君の望みなのか? それとも使命だから仕方なく、なのか?」
二階堂が聞くべきはそれだった。
「使命だから仕方なく、っていう話なら、俺は君に、お兄さんの件は諦めて俺と一緒に行こうと説得するつもりだ。君が嫌々やろうとしていることに、俺自身の命を使いたくはない。……ロンロンに、この世界を見せてやるって約束したからな」
アノマリアが表情を消して二階堂を見返している。
「だが、君が本心から望むなら……手を貸そう。アノマリアには命を救ってもらった借りがあるからな」
アノマリアは伏し目がちになって口を開く。
「その問い、残酷だよ。アブザードはアミナの抜け殻。ただの肉塊。あれはお兄ちゃんの姿をした
「そうか……すまない。酷いことを聞いたな」
二階堂は偉そうに無神経なことを聞いた自分を恥じた。
「……でも、今おじさまに言われて考えたんだけどね――」
アノマリアはまっすぐに二階堂を見て言った。
「優しくて強くて、かっこよかったお兄ちゃんの身体が、
そう言ったアノマリアの気丈な笑みに、二階堂は目を奪われた。
彼はひとつ頷くと、顔を上げる。
「――いいかな、ロンロン?」
「カオルが望むなら」
二階堂は立ち上がった。
「――アノマリア。君のお兄さんの肉体を、大地に帰そう」
アノマリアはそんな二階堂を見上げ、微笑んだ。
「――カオルおじさまは、お人好しッスよ」
「
そうおどけて肩をすくめて見せた二階堂の足を、ロンロンがすくった。
「そうだ、アノマリア。カオルはお人好しなんだ。なにせ私の口車にほいほい乗って死地に飛び込んで、名前も知らない君を助けに行ったくらいだからな」
テーブルの上の藁人形に「<待っていろ、アノマリア姫! 今王子が参る!」という吹き出しが出た。ご丁寧に頭の上に王冠の表示まで重ねてある。アノマリアがそれを指差してけらけら笑った。
「それ、ほんと笑える……」
「気に入ったのか、それ?」
ジト目になってロンロンに言い返した二階堂。
「すごくな。身体を手に入れたようだ。身体があるというものは、いいものだな」
「……よかったな」
二階堂は、そんな何気ないロンロンの軽口に、かすかな本音が垣間見えたような気がした。
「言っとくけど、俺ただのおっさんだからな。あんまり期待するなよ」
口を押さえて笑いを堪えているアノマリアに、二階堂は嘆息混じりに言った。するとそこにロンロンの声が聞こえてくる。
「そこでだ、カオル。まずはタンパク質を取ってきてくれ」
「は? ええ……この話の流れで?」
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